伝道の書12章・霊がまことの神のもとに帰るとは?(新世界訳)

「そのとき,塵はかつてそうであったように地に帰り,霊もこれをお与えになった[まことの]神のもとに帰る。」(伝道の書12:7) 


 伝道の書12章1節には、若い日に創造者を覚えるようにと勧められていて、2節から6節までには、そうする理由として老齢に伴う様々な諸症状が列挙されています。そして、7節には老化して最後に死ぬ時、どうなるかということが述べられています。では、霊がまことの神のもとに帰るとは、意識ある霊魂が死んだ時、神のもとに行くことを意味しているのでしょうか。考えてみましょう。
 

 続く伝道の書12章8節には、「『何とむなしいことか!』と召集者は言った,『すべてのものはむなしい』と。」と述べられています。ですから、伝道の書の筆者は、死んだ時に人間に起こることがむなしい残念なことであると述べています。もし、仮に死んだとしても、不滅の霊魂が残り、文字通り神のもとに帰り、死んでも意識が続いているのなら、伝道の書の筆者はこのようにむなしいとは述べなかったのではないでしょうか。そうではなく、人は死んだ時に地の塵に戻り無存在になるので、伝道の書の筆者は「むなしい」と述べたのではないでしょうか。 


 詩篇146編4節にも、人間が死んだ時に何が起きるかが次のように記されています。「その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる。」それで、死んで地面に帰る時に、考えは滅びるつまり意識は無くなると述べられています。この聖句では単に、霊が出て行くと述べられています。ですから、この「霊」は、死んでも存続する霊魂を意味しているわけではありません。


 霊とは、その語が人間に関連して用いられる場合、人間の身体に働く生命力を表わしています。生命力はもともと神を源としています。生命力は、最初に神がアダムに与えました。アダムからエバが造られ、その後のアダムの子孫は、アダムとエバの生命力を生殖の時に受け継ぎます。


 それで、詩篇146編4節にある通り、人が死ぬ時、霊つまり生命力は人の肉体から消失していきます。そして、伝道の書12章1節は、人が死ぬ時、霊つまり生命力は、これをもともとアダムにお与えになった神のもとに比ゆ的に帰ることを述べているようです。これは、霊つまり生命力が文字通り宇宙を旅行して神のもとに行くことを意味しているわけではありません。


 人が死ぬと、死んだ人を生き返らせることができるのは、神だけです。つまり、死んだ人に霊を回復させて、その人が再び生きるようにさせることができるのは、人を再創造して生命力を吹き込むことのできる真の神だけです。そのような意味で、霊つまり生命力は神のもとに帰ると述べているのでしょう。


 同様のことを詩篇104編29節、30節も述べています。そこには、神が霊を取り去られるなら、人は息絶え、塵に戻っていくこと、神が霊を送り出されるなら、人々が新たに創造されると述べられています。それで、神は人から霊つまり生命力を取り去り、人の命を奪うことができます。また、神は死んだ人を再創造されて霊つまり生命力を送り出して人に吹き込んで、人を命あるものとすることができます。


 それゆえ、人に永遠の命を与えるかどうかを決められるのは、聖書の真の神エホバだけです。それで、伝道の書12章7節の人が死ぬ時、霊がまことの神のもとに帰るというのは、その人を再創造して霊つまり生命力を与えるという将来の見込みは、まことの神の手にかかっているということを表現しているのでしょう。私たちは、私たちの将来の命を左右する真の神の是認を求めるようにするべきでしょう。