啓示1章・イエスの右手にある七つの星とは誰を表わすか

「また、それらの燭台の真ん中に、人の子のような者が、足まで届く衣をまとい、胸に黄金の帯を締めて立っているのを見た。・・・そして、その右の手に七つの星を持ち、・・・。」(啓示1:13,16)


 ヨハネへの啓示の書の中で復活して栄光を受けられたイエスの幻があります。そこでイエスは、右手に七つの星を持っておられました。イエス・キリストの右手にある七つの星とは何ですか。


 イエスは、七つの燭台は七つの会衆を、七つの星は七つの会衆の使いたちを表わしていると説明されました。(啓示1:20)


 イエスは天的希望を持つクリスチャン全体が人々の前で輝くという燭台の働きをすると言われました。(マタイ5:14〜16)それで、天的希望を持つクリスチャン会衆全体が、七つの燭台、七つの会衆と言えます。


 では、七つの会衆の使いたちとは誰を表わしているでしょうか。エホバの証人は、七つの会衆の使いたちとは、天的希望を持つ長老たちを表わしていると解釈しています。


 この「使いたち」とは、英語で「angels」となっています。これは原語のギリシャ語のアンゲロスを訳したものです。ギリシャ語のアンゲロスは、字義的には「使者」を意味しています。霊の使いであると思われる時に日本語で「み使い」と訳されます。人間であると思われる場合は、「使者」または「使い」と訳されています。その語は、人間の「使い」たち、もしくは、霊者の「使い」たちのどちらかを意味しています。


 ギリシャ語のアンゲロスは日本語で「使者」と訳されることがあります。「使者」は日本語のギリシャ語聖書で6回出てきます。(マタイ11:10、マルコ1:2、ルカ7:24、7:27、9:52、ヤコブ2:25)いずれも、単に「使者」という意味であり、その語に長老という意味はありません。それで、啓示1章12節の「七つの会衆の使いたち」という語に、長老たちを表わす意味は含まれていないでしょう。


 その語は天的希望を持つクリスチャン会衆の「使者」つまり、音信を伝える者を意味しているにすぎません。西暦33年のペンテコステの際、エルサレムにいた弟子たちに聖霊がそそがれて、彼らは「預言し、幻を見ました。」(使徒2:17)ですから、霊的なイスラエル人である天的希望を持つクリスチャン全体は全部が預言者であり、エホバの使者という役目を果たすと言えます。


 興味深いことに、マラキ2章7節では、祭司は、「万軍のエホバの使者」と呼ばれています。ですから、霊的な祭司級の天的な希望を持つクリスチャン全体が「使者」とみなされるのは、ふさわしいことでしょう。


 ですから、啓示1章12節の「七つの会衆の使いたち」という語は、天的希望を持つクリスチャン会衆の音信を伝える個々の成員を表わしているでしょう。それで、イエスの右手にある七つの星とは、天的希望を持つクリスチャン会衆全体の個々の成員を表わしていると言えます。


 七つの星が、天的希望を持つクリスチャンを表わすというほかのどんな聖書的根拠がありますか。ヨセフの11人の兄弟たちは、ヨセフの見た夢の中で11の星として表わされていました。ヤコブの12人の息子たちは、全イスラエルの12部族の父祖になりました。ですから、生来のイスラエル人が星と呼ばれていたとみなすことができます。(創世記37:9)同様に霊的イスラエル人全体を星とみなすのはふさわしいことでしょう。


 聖霊で油注がれたクリスチャンを予表するユダの王も星と呼ばれています。(イザヤ14:13)また、主の日にあって、洞察力があり多くの人を導いている者たち、すなわち霊的イスラエル人である天的希望を持つクリスチャンは、星のように輝くと予告されていました。(ダニエル12:3)




 このことは、イザヤ41章10節で、エホバ神が「わたしの義の右手であなたを本当にしっかりととらえておく」と言われた者が、長老ではなくアブラハムの胤全体であったこととも調和しています。それで、エホバ神はただ天的希望を持つ長老だけではなく、アブラハムの胤として選ばれた者、すなわち天的希望を与えた者たちすべてを右手でしっかりとらえておかれます。


 啓示の書の中に七つの会衆、七つの黄金の燭台、七つの霊、七つの目、七つの角とありますが、七と言う数字は神や霊的な事柄に関して全体を表していると言えます。(啓示1:20,4:5,5:6)ですから七つの星は霊によって天的希望を持つクリスチャン全体を表わしているといえます。


 このことは、啓示2,3章の中で七つの会衆の使いたちに与えられた助言や訓戒は、聖霊で油そそがれた長老だけでなく、実際には、聖霊で油注がれて天的希望を持つクリスチャン会衆全体に当てはまることからも分かります。


 一世紀においてエルサレム会衆の使徒や年長者たちは重んじられて、大いに用いられました。けれども、エホバ神はパウロやテモテやルカなどの、エルサレムに住んでいない天的希望を持つクリスチャンの長老たちをも用いられました。さらに、天的希望を持つ姉妹たちも限られた仕方で神のご意志を行ないました。エホバ神は聖書全体を通して一貫しておられ、時代を越えて同じ仕方で行動されます。(イザヤ41:4)


 それで主の日においても、エホバはご意志を行なわれるのに特定の場所に住む天的希望を持つ長老だけを用いられるのではなく、天的希望を持つクリスチャン全体を用いられます。


 このことは、イエスが霊的食物を供給するのに天的希望を持つ長老たちだけ用いると言われたのではなく、「忠実で思慮深い奴隷」全体を用いるとされている事とも調和しています。(マタイ24:45〜47)