近親相姦の傷跡を癒す―神は理解して助けてくださる


 近親相姦の傷跡を癒すというシリーズで、「その破壊的な影響」「助けにならない言葉と助けになるかもしれない言葉」を取り上げました。今回は、やはり、近親相姦について相談を受けた人を対象に、神が近親相姦の犠牲になった人を理解して助けてくださることについて取り上げたいと思います。











 近親相姦の被害者の怒り、そして被害者が経験する罪悪感の中には、加害者が自分のしたことを率直に認めて謝罪するなら、和らげられるものもあります。

 ある被害者の父親は近親相姦が露見して逮捕されました。その被害者はこう言っています。「3年ほど前,父はすてきなプレゼントをくれて,『わたしたち二人の間に起きた色々な事柄について本当に済まなく思っていることを知って欲しい』と言いました。私は父が何のことを言っているか分かったので,父の謝罪を受け入れました。今は父と良い関係にあります」。


 加害者が謝罪するなら、被害者も自分の問題に対処しやすくなるでしょう。しかし残念なことに,加害者の中にはすべてをにべもなく否定するか,自分のしたことのほんの一部しか認めない人が少なくありません。(詩編10:13)ノイローゼ気味になった女性が助けを求めるころには、その女性を犯した者が死んでいることさえあるかもしれません。しかし怒りは依然として残るでしょう。


 その場合は、すべての邪悪な事柄を見ておられ、公正に従って報いられるエホバに頼ることができます。聖書は、「[神]のみ前に明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません。」と述べています。(ヘブライ4:13)


 近親相姦をした人がひそかに隠れて罪を犯し、誰も見ていなかったと考えて、罪を認めないとしても、エホバは、見ておられ、悔い改めない罪人に怒りを抱き続けられます。(ヨハネ 3:36)

  最終的には、近親相姦をして悔い改めない人だけでなく、他の邪悪な事柄すべてを行なって悔い改めない人をエホバが裁かれる時が来ます。私たちは、エホバの公正と裁きに依り頼むことができることを指摘できます。


 しかし、一方、近親相姦の被害者に対する助言の目的は助けることにあって、懲らしめたり圧力をかけたりすることではありません。被害者に対して、これこれこのように考えるべきだと言うよりも、話をよく聞いてその人が本当にどう感じているかを知り、それから色々な質問をして静かに相手の気持ちを探り、そのように感じる理由を当人が自分で理解するように助けるほうがはるかに有益です。


 話をしていて罪悪感が非常に深いものであることが分かる場合があるかもしれません。その場合は、幼い子供に対する近親相姦は決して子供の責任ではないという点を指摘すべきです。幼い子供たちはよく大人に対して親愛の情を表わす行為をします。そして、子供たちは大人の性に関しては何も知りません。「物言わぬ子供たち」という本が指摘している通りです。「子供は親しさや温かさが性的なものになることなど考えてもいない。」


 それで、子供の時に強制わいせつ行為の犠牲になった人は確かに、神が理解してくださり愛をもって受け入れてくださるということを指摘できます。


 強制わいせつ行為の対象にされた子供とは違ってゆゆしい罪を犯す人々をさえも、もし悔い改めて行状を改めるなら,エホバは許してくださいます。初期クリスチャンの中には、クリスチャンになる前に、「淫行の者、・・・姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どおしで寝る者」がいました。(コリント第一 6:9‐11)しかし、それらの人々が悔い改めたので、エホバはそれらの人々を許して受け入れられました。


 まして、子供の時に強制わいせつ行為の犠牲になった人に対して、神はとがめることはされず、その人を価値ある者として愛してくださるということを指摘できます。


 聖書は、「エホバの目に貴重なもの、それはご自分の忠節な者たちの死です。」と述べています。(詩編116:15)それで、エホバに信仰を持つ人や、エホバの基準に忠節な人の命はエホバにとって貴重です。罪悪感を抱く被害者は、かえってエホバの目に正しい人であり、エホバはそうした人を価値ある者とみなして愛してくださいます。


現実的な見方

 感情的な傷を負っている人を助けるのはやさしいことではありません。数分で扱えるような問題ではありません。忍耐、愛、親切、努力の繰り返し、そして特に時間が求められます。奇跡的ないやしはありません。ノイローゼ気味の被害者が感情的な安定を得るまでには何度も話し合い、また祈ることが必要です。いやな経験は忘れられるものではありません。しかし被害者はその記憶と共存することを学ぶことができます。


 例えば,ある被害者はこう言いました。「私は今でも自分は価値のない人間だという気持ちになることがあります。でも,そうではないのだ,と自分に言い聞かせるのです。すると一日ほどでその気持ちは消えてなくなります」と言いました。


 別の被害者は,「私は聖書から、許すこと、他の人々を助けること、そして自分を哀れむのをやめることを学びました」と語りました。

 また、「私は皆さんに助けられて、エホバが今でも私を愛してくださっているということを理解するようになりました。……エホバの助けによってすべての問題を克服するつもりでいます」と言った人もいました。(詩編 55:22)


永久的な解決

 イエスは地上におられた時、肉体に傷のある人々、つまり「足のなえた人、不具の人」たちを奇跡的にいやされました。(マタイ 15:30)近づいている新秩序においては、肉体の病気がすべて取り去られ、肉体の病気を癒す奇跡は何度も繰り返し行なわれます。(イザヤ 33:24)


 感情的な傷に苦しんでいる人々の場合、円熟したクリスチャン男女が、人の心を慰める神の言葉の影響力に頼りながら愛と忍耐をもって援助すれば、その人たちが自分の問題を処理し、なおかつエホバとの関係に喜びを見いだすように助けられることが少なくありません。(ヤコブ 5:13‐15)


 しかし、新秩序においては、『以前の苦難は実際に忘れられる』という約束があります。(イザヤ 65:16)新秩序においてはすべてのものが新しくされ、近親相姦の犠牲になったことを含めてすべての苦難は、忘れ去られるほど、新秩序での生活は喜びに満ちたものとなります。


 神の僕は皆、神が『彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり、もはや死はなく、嘆きも叫びも苦痛ももはやなく、以前のものが過ぎ去る』時を、確信をもって待ち望むことができます。(啓示 21:4)これこそ、感情的な傷をも含め、すべての苦しみの最終的ないやしとなります。


※この記事は、ものみの塔1984年1/1の記事「近親相姦の被害者に対する援助」を参考にして作成されています。


続々 児童虐待の傷をいやす−性的虐待http://blog.livedoor.jp/littleyohane/archives/51533957.html

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