ルカ9章新共同訳・「聖霊体験」は神の霊が注がれた証拠ですか

「その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。」(ルカ9:42新共同訳)


 私が以前「使徒2章・聖霊は人格的なものですか(新改訳)」という記事をはてなダイアリーのブログにアップした時に、「聖霊体験もしていないのに、聖霊は神ではないとは乱暴じゃないですか。」というコメントがありました。


 「聖霊は人格的なものですか」の記事は、聖霊が三位一体の一つの位格ではなく、神の持たれる非人格的な力であることを示し、聖霊を崇拝するのではなく、唯一まことの神ご自身を崇拝するように励ます記事でした。それに対する反論として、私が「聖霊体験」をしていないことを聖霊について語る資格がないと述べていたようでした。


 私は聖霊体験とは何か十分に分からなかったので、ネットで調べてみました。すると、「聖霊体験」とは、あるキリスト教会の中で使われている言葉のようでした。それによると、礼拝中に、「牧師の叫びやバックグラウンドの激しい音楽、会衆の叫びによって、マインドコントロールされた状態に陥るのが聖霊体験だ」ということです。


 聖霊体験をすると、「牧師に手を置かれて、あるいは背中を押されて、ステージでばたばた倒れる」ことがあります。そして、「聖霊体験をして倒れてしばらく動け(ない)」ことがあります。また、聖霊体験をすると感情をコントロールすることができなくなり、「礼拝中に泣きじゃくって涙がとまらな(い)」ことがあります。


 「聖霊の体験、といいますと、床に倒れる、体が震える、異言を語る、幻を見る、心があたたかくなる、などなど、人によっていろいろの体験があります。」と述べる人もいます。以上は、ネット上にある「聖霊体験」についての説明です。


 このような体験は、本当に、聖霊が注がれたことの証拠なのでしょうか。聖書を調べてみましょう。


 初期クリスチャンは、確かに神から聖霊を注がれ、異言を語ったり、幻を見たりしました。しかし、それによって初期クリスチャンは、感情のコントロールを失ったり、泣きじゃくったり、床に倒れたりしたでしょうか。


 異言などの霊の賜物があった初期クリスチャンは、集会を、どのような仕方で開いていたでしょうか。使徒パウロは集会に関して次のように指示を与えていました。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。・・・座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。・・・預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(コリント第一14:27,28,30,32,33新共同訳)


 それで、初期クリスチャンの集会は無秩序だったり、騒がしかったりすることなく、平和裏に秩序だって行なわれていました。異言などの奇跡的な賜物を与えられていたクリスチャンは、順番に話し、解釈する人がいない時や他の人が語っている時は、黙っており、感情を制御していました。ですから、「聖霊体験」をする人が感情をコントロールできなくなるのは、初期クリスチャンに神の霊が注がれた特徴と反しています。


 かえって感情をコントロールできなくなったり、倒れてしまって動けなくなってしまったり、無秩序な事態になるのは、悪霊に攻撃されていることを示しています。


 冒頭の聖句に示されているように、一世紀に、「悪霊」は、ある少年を「投げ倒し、引きつけさせた」と述べられています。(ルカ9:42)また、ある悪霊は一人の男を動かして、大声で叫ばせたり、投げ倒したりさせていました。(ルカ 4:33〜35)それで、今日の聖霊体験とは、聖書中にある悪霊に攻撃された人の状況と似ていると言えるのではないでしょうか。


 ですから、今日の聖霊体験は、神の霊が注がれた証拠ではなく、かえって悪霊に支配されている証拠となるでしょう。ですから、私は、「聖霊体験」がないことを幸いに思います。


 聖霊体験をすることは、聖書に基づく真の宗教の特徴と一致していません。聖霊体験は、神に近づいたように見えても、実際は悪霊に攻撃されています。ですから、聖霊体験をする人は、それを神に近づいた証拠だと考えるならば、実際には、悪魔サタンと悪霊によって欺かれています。


 ですから、聖霊体験をする人は、聖書を正しく解釈できないでしょう。私たちは、聖霊体験を求めるのではなく、それから離れているようにすべきです。


 次回は、聖霊体験は、何を示すしるしと言えるのかを、さらに「続 『聖霊体験』は神の霊が注がれた証拠ですか」の中で検討したいと思います。



テサロニケ第二2章新共同訳・続「聖霊体験」は神の霊が注がれた証拠ですか

続 真実の愛と盲目の恋を見分ける

ヘブライ1章・イエスが礼拝されるのは神だということですか(新共同訳)

使徒2章・聖霊は人格的なものですか(新改訳)