続 劣等感を克服する


先回「劣等感を克服する」の中で、自尊心を培うための幾つかの提案を考慮しました。今回は劣等感を克服して自尊心を培う上で、注意しておくべき点について考慮します。つまり、人は賢明でない方法で自尊心を持とうとすることがあります。また、自尊心を持ちすぎてそれが誇りになるなら、やっぱり失敗だと言えます。


行き詰まり

ある著述家は,「性格の弱い,自尊心のない青年は時々,表面を装って世に臨もうとすることがある」と言いました。そのうちの一部の青年たちが演じる役どころはよく知られています。“腕っぷしの強い男”,乱交界の名士,奇抜な服装のパンクロッカーなどです。しかし,そういう青年たちはその見かけの背後で,やはり劣等感と闘っているのです。―箴言 14:13。







例えば,乱交にふける人たちのことを考えてみましょう。その目的は,「憂さ晴らし,(求められていると感じることによって)自尊心を高める,親密な関係を得る,妊娠によって別の人間,つまり疑わずに自分を受け入れてくれる赤ちゃんの愛を得る」ことなのです。(「十代の憂うつに対処する方法」)


幻滅を感じた一人の若い女性は次のように書いています。「私は性的に親密な関係から慰めを得ようとして,創造者との強固な関係を築く努力を怠りました。私が築き上げたものといえば,むなしさと寂しさと,ますます憂うつな気分だけでした」。それで、ある人は、結婚していないのに、性的に親密な関係を持つことによって自分に自信を得ようとします。しかし、性の不道徳よっては健全な自尊心を持つことはできません。ですから,そのような行き詰まりに注意しましょう。


警告の言葉

興味深いことに,聖書は,自分を過度に高く評価しないようしばしば警告しています。なぜでしょうか。それは恐らく,わたしたちのほとんどが,自信を得ようとして度を過ごす傾向があるからでしょう。自己中心的になって,自分の技術や能力を誇張する人は少なくありません。他の人を見下げて自分を高める人もいます。


1世紀にローマの会衆は,ユダヤ人と異邦人(非ユダヤ人)の間の激しい対立に悩まされていました。ユダヤ人は、生来神から恵みを受ける立場であったゆえに、異邦人は、ユダヤ人にとって代わって神の恵みという立場に置かれたゆえに、自らを高め、お互いを見下げる傾向がありました。


そこで使徒パウロは異邦人たちに,彼らが神の恵みという立場に「接ぎ木」されたのは,ただ神の「ご親切」によるものであることを思い出させました。(ローマ 11:17‐36)独善的なユダヤ人も,自分自身の不完全さに直面しなければなりませんでした。「というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからで(す)」と,パウロは述べています。―ローマ 3:23。


パウロはローマの会衆の人々に,こう言いました。「わたしは,自分に与えられた過分のご親切によって……すべての人に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません」。(ローマ 12:3)ですから,ある程度の自尊心を持つことは「必要」ですが,パウロは、ユダヤ人も異邦人も自分を必要以上に高めることのないようにと助言しました。


アラン・フロム博士はこう観察しています。「自分について適正な考えを持つ人は,悲しみに沈むことはなく,かと言って喜びで有頂天になる必要も感じない。……その人は悲観的ではないが,その楽観的な考えも制御されないわけではない。無謀でもなければ,特定の恐れを全く抱かないわけでもない……常にすばらしい成功を収めるというわけではないが,何をやっても失敗するというわけでもないことをその人は悟っている」。


ですから慎み深くなければなりません。「神はごう慢な者に敵し,謙遜な者に過分のご親切を施される」のです。(ヤコブ 4:6)自分の長所を認めましょう。しかし欠点も無視してはなりません。むしろ欠点を改善する努力を払ってください。それでも時々自分を信じかねる時があるでしょう。しかし,自分の価値や,神があなたを気遣っておられるということを決して疑う必要はないのです。「人が神を愛しているなら,その人は神に知られている」からです。―コリント第一 8:3。


それで、自尊心を持つようにしましょう。自分の長所を認めましょう。また、神との関係のうちに健全な自尊心を培いましょう。しかし、過度に自分に誇りを持つことのないようにしましょう。


この記事は、エホバの証人発行の「若い人が尋ねる質問 実際に役立つ答え」の第12章「どうして自分がいやになるのだろう」の後半部分から抜粋されています。少し言葉を付け足しています。


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