(6)聖書の記録は真実の記録

聖書は、作り話であり、神話であるという人がいます。しかし、実際は聖書は、信頼できる歴史の記録です。イエスは、「あなたのみ言葉」つまり聖書は、「真理です」と言われました。(ヨハネ17:17)
                           バベルの塔
聖書の記録の正しさを裏付ける考古学的証拠は、遺跡、碑文、彫刻という形で、豊富に存在しています。例えば、聖書は、ノアの大洪水後にバベルで人々が、高い塔を建て「その頂を天に届かせよう」と言ったということが記録されています。人々は、れんがを焼いて瀝青をモルタルの代わりに用いました。(創世記11:3,4)神は人々の企てを挫折させるために、人々の言葉を混乱させました。すなわち、それまで人々はひとつの言語を使っていたのですが、神は人々が異なる言語を話して互いに通じないようにさせ、人々は、塔を建てるのをやめて全地に散っていきました。(創世記11:6-9)


古代の都市バビロンやメソポタミアでの発掘調査により,数基のジッグラト(ziggurat)すなわちピラミッドに似た階段状の神殿塔の遺跡が見つかっています。そのどれがバベルの塔であったかは、分かりませんが、バビロンにあるエテメンアンキ(Etemenanki)がバベルの塔の名残をとどめているのかもしれません。


エテメンアンキは、バビロンのマルドゥク神殿の中心部のジッグラトで、シュメール人が建設を開始し、工事が中断していた物を、新バビロニア王国時代に、ナボポラッサル王が再建に着手し、ネブカドネザル2世の時に完成したものと考えられています。底面約91m×約91mの正方形で、頂上には神殿(至聖所)があったと推測されています。現在はバビロンの遺跡にわずかに遺構が残っています。





エテメンアンキはバビロンの遺跡にわずかに残っています−バベルの塔の名残かもしれません




後代のネブカドネザル王は、ヘブライ人との交流があったので、バベルの塔について聞き及んで、バベルの塔を再建しようと考えたのかもしれません。


バビロンの神殿に関する,見つかった記録や碑文には大抵,「その頂を天に届かせよう」という言葉が含まれており,ネブカドネザル王は,「わたしはエテメナンキの階段形式の塔の頂を天と張り合うほど高くした」と語ったと記されています。


エテメナンキについては、シェーンコレクション(ノルウェーの実業家マーティン・シェーン(Martin Schøyen)が設立した書物収集団体)が所有する、黒い石碑に刻まれた碑文と絵が明らかにしているということです。


バビロンのマルドゥクの神殿の北で見つかった一断片は,次のように述べています。「この神殿の建設は神々を怒らせた。神々は建てられたものを一夜のうちに引き倒した。神々は人々を遠くに散らして,彼らの言葉を奇妙なものにした。神々はその進展を妨げた」。(「聖書とスペード」,S・L・ケイガー著,1938年,29ページ)バベルの塔の出来事を異教の崇拝者が記録すると、唯一真の神を「神々」と記録することになるでしょう。今回は碑文の画像は準備できませんでした。画像を確認できた方は教えてください。


ウルのジッグラトは、日乾し煉瓦と焼成煉瓦と瀝青で作られています。このことは、メソポタミアで、聖書が述べるとおり、建造物を作るのに、焼いた煉瓦と瀝青を使うことが通常に行われていたことを示しています。




Soldiers tour Ziggurat of Ur by The U.S. Army (Ziggurat)
ウルのジッグラトは焼いたれんがと瀝青で作られています



                         聖書の筆者の正直さ

聖書が信頼できる書物であることの理由のひとつは、その筆者たちがとても正直であったということです。諸国家の政治指導者の記録は、古代においても、現代においても、国益を推進するために、正直さが犠牲にされることもありました。


一方、聖書の筆記者たちの記録は、当時の指導者たちや自分を高めることが動機ではありませんでした。聖書は、人間が皆過ちをすることを述べています。(ローマ3:23。ヤコブ3:2)また、聖書が記録されたのは、その記録から後の時代の人々が警告や教訓を得るために記されました。(コリント第一10:11。ローマ15:4)そのために、その記録は、現実をはっきり見据えた真実の記録でした。ですから、聖書の記録は正確で信頼できるものです。


諸国家の記録は、一時的な国益の推進のために、不正確である場合があります。現代でも、第二次世界大戦中に、日本政府は新聞やラジオなどのメディアに対して言論統制をしました。メディアの報道は厳しく監視され、日本軍の敗北など日本政府にとって不都合なことは削除され、偽りの勝利の報道がなされました。結果として、日本政府の中心にある指導者たちも、重要な事実を知らなかったり、政府が賢明でない判断を下して、不適切な指導を与えるという結果になりました。
 

一方、聖書の記録は、非常に正直であり、間違いや失敗も隠していません。聖書は、多くの神の僕が偶像崇拝や淫行に陥ったことを記録しています。例えば、聖書は、有名な神の僕であり王であったダビデも他の人の妻と姦淫に陥ったことを隠さず正直に記しています。(サムエル第二11:3,4)



(davidandnathan1)
聖書は有名な王ダビデの姦淫という罪を隠していません




また、初期クリスチャンの間にも一般の人々の間にもないほどのはなはだしい不道徳が存在したことを記録しています。(コリント第一 5:1)また、使徒のひとりペテロがイエスを三度否認したこと、クリスチャンの間でさまざまな問題について意見の相違があったことを記録しています。(ルカ22:60-62)また、ある場合は、富を追い求めたり、一般の人々に受け入れられることを望んでクリスチャンの道から離れてしまった者たちがいたことも記しています。(テモテ第二4:10)



(peterdeny)Peter denies the Lord.
聖書はペテロがイエスを三度否認したという失敗を正直に記録しています
聖書は神の僕の失敗さえ隠していないので信頼できます




また、聖書の最後の本啓示の書には、初期クリスチャンの中には、死に至るような厳しい迫害を受けたこと、貧しかったこと、偶像崇拝と淫行を行なう者たちがいたことなど、人間的な見方からすれば、望ましくないことも正直に記録しています。(啓示2:9,10,14)

もし、聖書が作り話であれば、それから警告や教訓を受けられないでしょう。しかし、今日の私たちは、そうした実際にあった現実の出来事から教訓を得ることができます。聖書の記録は、正直な真実の記録であるために、勇気を得て、後に「良い結果になる」ように賢明に行動する助けになります。(伝道の書8:12)


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