大いなるバビロンから逃げてくる人の扱い方


 ヨシュア20章は、昔モーセの律法下で、誤って人を殺してしまった人が、避難都市に逃げたことを示しています。過去の避難都市の取決めは大いなるバビロンから逃げてくる人をどのように扱うかに関して洞察を与えます。


 啓示の書は、大患難の直前になって非常に多くの人が神の民に保護を求めることを示しているようです。(啓示6:15,16) その中には、大いなるバビロンに属する人々で、預言の成就を見て、大患難の直前になって、大いなるバビロンから出て逃げるという人々も含まれるでしょう。(啓示18:4)山に逃れたクリスチャンは、大患難の前に、大いなるバビロンから出て逃げてきた人々をどのように扱うべきでしょうか。


 大いなるバビロンから逃れてきた人々は、神の命令に従って南の王であるアメリカでもなく、北の王でもない場所に逃れるでしょう。聖書は、北でもない南でもない国々を「日の出の方」もしくは「日の出る方」と言っているようです。そして、その地域は、大患難後も存在しています。(ダニエル8:9;11:44)


 「日の出」というのは、「東」です。(民数記3:38)「日の出の方」とは東アジアを中心にした諸国家かもしれません。また、「北」も大患難後に存在しています。(ダニエル11:44)北の王の国は、圧政的になり、そこに住む人は多くが兵士として戦うように強制されるので、そこは住みにくいとは言え、北の王の国の中にも、神の民が存在しています。


 昔、イスラエルでは殺人が行われた時に、殺された人の親族と考えられる「血の復しゅう者」が意図的な殺人者を殺すことが許されていました。(民数記35:19-21)


 それで、将来、南の王に対して北の王は、いわば「血の復しゅう者」の役割を果たすことになるのでしょう。大患難の時には、北の王の軍勢は、南の王の土地と、南の側につく国家の土地に対して、総攻撃を加えます。それは三度にわたりますが、一度目と三度目は北の王が成功します。(ダニエル11:25,40-42)


 北の王は、南の王以外の土地に関しては、攻撃をする土地と攻撃を差し控える土地があります。(ダニエル40:41,42)過去に南の王と共に軍事行動をとっていた国は、攻撃される可能性が高いでしょう。また、南の王と共に軍事行動をとることが習慣になっていれば、北の王と南の王の抗争の時、南の王と共に北の王に対して戦うことになるでしょう。そうすると、二度は南の王と共に大敗することになります。


 神の民は、大患難の前に、北の王の攻撃を避けて、山に逃げている必要があります。(マタイ24:15,16)ところが、大患難の際に、北の王は、「飾りの地」を攻撃することになっています。(ダニエル11:40,41)「飾り」の地とは神の民の領域を意味します。(エゼキエル20:6。申命記26:15)では、北の王に攻撃される「飾りの地」とはどこを意味するのでしょうか。


 エホバは、イエスの預言的命令に従う神の民が、大患難に巻き込まれることを許されるはずがありません。それで、北の王に攻撃される「飾りの地」とは、大患難の直前になっても山に逃れることをしていない神の民を意味していると思います。(ダニエル11:40,41)


  エスは、啓示の書の中で、神の民と自称していても偶像崇拝と淫行を行っている者たちを「大患難に投げ込む」と言われました。(啓示2:22)ですから、神の民の中にも、神に不忠実なために大患難に巻き込まれる者たちがいることを啓示の書も述べています。


  しかし、イエスの勧めに従って山に逃れて大患難を生き残ることになる神の民が存在することをダニエル書も預言しています。(ダニエル11:45)それで、大患難の前に、神の民のコミュニティが主に日の出の国の山間部に、またおそらく北の王の山間地にも存在しているでしょう。大いなるバビロンから出る人たちは、そこに逃れようとするでしょう。


 昔のモーセの律法の取決めでは、避難都市に逃れてきた意図せずに人を殺してしまった人を血の復しゅう者に引き渡してはいけないことになっていました。(ヨシュア20:5)



Shechem hill country. (refugecity8)
昔避難都市が決められていて意図せずに人を殺した人を受け入れて血の復しゅう者によって殺されないようにしていました




 昔の避難都市の取決めを考えるならば、神の民は大いなるバビロンから逃げてくる人々を受け入れて、それらの人々が北の王の軍勢によって命を失わないように取り計らうことが求められていると思います。


 しかし、昔の避難都市の取決めでは、その都市に逃れてきた一部の人々については、「その者は、裁きのために集会の前に立つ」ことになっていました。(ヨシュア20:6。民数記35:24)ですから、昔、避難都市に逃げた人は、後で、いわば裁判にかけられて調べられたようです。


 それで、現代でも、大患難の時に大いなるバビロンから逃げてきた人についてふさわしい時に事情をよく調べて、流血の罪とりわけ神の民に対する流血が意図的に行われていたことが分かったなら、血の復しゅう者に渡すのが適当な場合があるかもしれません。


 しかし、神の民は、上位の権威のもとにありますから、私的な裁判をしていいとは思いません。しかしながら、神の民は、申し立てや証拠を調べて流血の罪があるなら、コミュニティに受け入れるのを拒絶することはできるでしょう。


しかし、昔のマナセ王のようにはなはだしい流血の罪を犯してしまっても、自分の犯した罪を後悔して、悔い改め自分の生き方によって罪の償いをするという人もいるかもしれません。マナセ王は、神に祈ったので神に許されました。(歴代第二13:12,13。列王第二21:16;24:4)


 マナセ王の事例を考えるならば、確かに、生き方を変えて大いなるバビロンから逃れて、罪の償いをする生き方をしている人々に関しては、その裁判の時に当人の生き方を考慮することができると思います。


 しかし、大いなるバビロンに属する人は、流血の罪を犯すなら、将来裁判によって非とされ、たとえ、大いなるバビロンから逃げても血の復しゅう者の北の王に手に陥る可能性もあることを覚えておくべきです。


 大いなるバビロンと共に流血の罪にあずかることによる結果を考えるならば、大いなるバビロンが神の民に対してはなはだしい迫害を行なう前に、共にその罪にあずからないように早くそこから出ることが賢明であることを示していると思います。(啓示18:4)さらに、いつまでも大いなるバビロンにとどまるならば、神の民に対する迫害が激しくなった時、自分自身が命を失う可能性も高いでしょう。それで、できるだけ早く大いなるバビロンから出ることをお勧めします。




Corey Seeman(chicago3)
できるだけ早く大いなるバビロンから出て命を守ることをお勧めします



 大いなるバビロンに属する人々が逃れることのできる場所が必要です。このことは、北の王の側に立つのではなく、南の王について軍事行動を行なうこともしない日の出の国家が存在することが必要であることを示しています。


 大いなるバビロンの人々は、他の国家が自国と共に軍事行動をしないのは、不満に思うかもしれませんが、日の出の国が多くなった方が、自分たちの逃れる場所が増えることを覚えておかれるようにお勧めします。