歴代第二17章・エホシャファトの聖書教育にどのように見習いますか

 歴代第二17章から古代のエホシャファト王の聖書教育運動から現代に何を学べるかを考えてみたいと思います。エホシャファト王は、ユダの地で組織的な神の言葉の教育を行い、エホバに喜ばれました。


 彼は、君たちに、レビ人たち、祭司たちと共にユダの諸都市でエホバの律法の書を教えさせました。(歴代第二17:7,8)彼らは、ユダのすべての都市をくまなく巡って、民の間で教え続けました。(歴代第二17:9)


 その結果、エホバの助けがあったのでしょう。エホバの怖れがユダの周りの諸国民に臨み、彼らはユダと戦いませんでした。(歴代第二17:10)そのようにしてエホシャファトは、エホバの祝福を受け、富と栄光を受け発展し続けたと記録されています。(歴代第二17:6,12)


 わたしたちは、エホシャファトから何を学べるでしょうか。エホシャファトが神のことばの教育に努力をしたことは、エホバ神の祝福を得ました。ですから、私たちは、神のことばの教育を行うならば、同じようにエホバ神の祝福を受けると思います。では、エホシャファトの教育にどのように見習うことができるでしょうか。


 まず、レビ人、祭司たちというような聖書に通じた人々が各地で聖書を教えました。ですから、聖書の知識を持っている人には、神の言葉を教えるという責任と特権があります。私は、神の言葉に信仰を抱いておられる皆さんが、各地で、神の言葉聖書の朗読を中心とした集会を設けることを提案致します。


 聖書朗読を中心とした集会が望ましい理由は、聖書に出てくる集会が、聖書そのものを読む聖書朗読とその説明を中心としたものが多いからです。(ネヘミヤ8:18;9:3。使徒13:14,15;15:21)そして、聖書は聖書朗読に励むように私たちに勧めています。「公の朗読・・・にもっぱら励みなさい」と述べられています。(テモテ第一4:13)これは、私的な聖書朗読ではなく、公の場所で聖書朗読をするということです。


 ですから、まず、聖書朗読を中心に据える必要があると思います。私は、人々に欠けているのは、第一に神の言葉聖書の正確な知識だと思います。




(biblereading14)
聖書朗読を中心に据えた集会を開催することを提案致します




 私は、エホバの証人の集会では、聖書の知識の普及には、十分ではないと思います。エホバの証人の集会や他のキリスト教の教会でも、聖書朗読はありますが、短いです。私は、聖書朗読にもっと力を入れる必要があると思います。


 では、聖書朗読の集会をどうすれば興味深いものにできるでしょうか。私は、ひとつの方法としては、出席した人が皆、大人も子供も聖書から一節づつ読むことができると思います。


 聖書朗読に参加すれば、少しでも、聖書朗読の集会に退屈せずにすみますし、来たかいがあると感じるのではないかと思います。また、参加する機会があればあるほど、喜びがあるのではないかと思います。


 コリント第一14章には、クリスチャンの集会の勧められている手順が書かれています。そこには、バプテスマを受けたクリスチャンの男性は、皆集会の際に発言して教えることができると書かれています。


 しかし、聖書は会衆で女性が「話す」こと、「教える」こと、「権威」を振るうことを禁じています。女性は「会衆の中では黙っていなさい。」と述べられています。(コリント第一14:34。テモテ第二2:12)基本的には、クリスチャン会衆の集会では、女性は黙って聴いて学んでいた方がいいということになります。


 この男女平等の時代に、女性の集会での発言を禁じるのは、時代に逆行していると感じるかもしれませんが、やはり、聖書の言葉の指示は従う時、有益なものだと考えます。聖書の原則からいうと、聖書の内容をまとめたり、他の人を教える注解の場合は基本的に男性が中心になって行うべきだと考えます。(テモテ第一2:12)


 しかしながら、聖書は、「この預言の言葉を朗読する者、またそれを聞き、その中にかかれている事柄を守る者たちは幸いである」と述べて聖書朗読を強調しています。(啓示1:3)それで、聖書を読むことは、他の人に「話す」ことや、「権威を」ふるっていることにはならないのではないかと思います。それで、現時点では、女性も聖書朗読の集会に出席して、聖書を読むことは許されているのではないかと考えます。


 しかし、これはまた聖書の他の言葉も再考してみます。現時点ではこのように考えます。他の方が他の意見があるならコメントでもいただければと思います。


 それで、私は出席者が聖書朗読をして聖書を学ぶ集まりを各地で開催する努力を払ってみられることをお勧めいたします。それは、エホバ神の祝福を受けることでしょう。