聖書朗読の集会をどのように開催できますか―頭の権の尊重と開催場所

 もし、各地で聖書朗読のための集まりを公共の場所で行う場合、どのように男性の頭の権に敬意を払うことができるでしょうか。また、どのように聖書朗読の集まりのための場所を確保できるでしょうか。


 その場にバプテスマを受けた男性が含まれている場合には、その男性の頭の権に敬意を払って、その男性に主に教える業を委ねることができます。それで、内容をまとめたり、それに基づいて教える注解は、男性に任せることができると思います。


 しかし、もし、その場に、バプテスマを受けた男性がいない場合は、集会を企画した女性が地的な希望のクリスチャンであっても、かぶりものつまりベールをして男性の頭の権に敬意を払いながら、聖書を朗読したり、注解を述べたりするしかないでしょう。(コリント第一11:5,6)


 コリント第一11章には、女性が預言したり、祈ったりする時、頭に覆うものをつけることがふさわしいことが述べられています。そうするなら、男性の頭の権を辱めないですみます。(コリント第一11:5)それで、聖書朗読の集会で、女性が朗読や注解をしたり、祈りをしたらする時には、頭を覆うもの、つまりベールもしくは帽子をかぶった方がいいと思います。


 ただ、その中に、聖霊で油注がれたクリスチャンの女性が含まれている場合は、その女性は特に、聖書に基づいて解釈を述べる権限と責任があると思います。聖書には、忠実で思慮深い奴隷、つまり天的な希望を持つクリスチャンは、時に応じて霊的な食物を与えるために任命されていることが述べられているからです。(マタイ24:45)


 それで、そこに、地的な希望を持つクリスチャンの男性がいても、天的な希望を持つクリスチャンの女性はかぶりものをして、聖書から教えることができると思います。


 しかし、もし、そこに天的な希望を持つクリスチャンの男性が含まれている場合には、やはり、天的な希望を持つ女性のクリスチャンは、男性の頭の権に敬意を払って黙っているのが聖書的でしょう。


   しかし、できる限り、聖書に精通した教え手が各集まりにいた方がいいので、その場合は、聖書についての知識のある人がいない集まりに、その天的希望を持つ女性は移動した方がいいかもしれません。




Mlle. Chenal (LOC) by The Library of Congress (veil4)
クリスチャンの女性は聖書を読んだり説明したり祈ったりする際にベールをかぶるならば頭の権を尊重できます

 


 エホシャファトの時代には、祭司やレビ人など聖書に通じた人が聖書の説明をしました。最初は女性であっても集会を企画した人が、準備して主に説明できると思います。そして、司会をする人が、進行役をしてまとめることが必要でしょう。 


 その際に、私がブログで聖書を説明する記事を準備しているので、参考にしていただければと思います。私は、忠実で思慮深い奴隷のひとりであると考えています。(マタイ24:45,26)


 その場合に、わたしの言葉の字面を追うのではなく、聖句がどのようにわたしの主張を裏付けているかに注目していただきたいと思います。私は、聖句に基づいて私の主張に異議を唱えられる場合は、その人の立場にかかわらず、考慮したいと思います。

  
 権威は聖書にあります。油そそがれた者に聖書を解釈するある程度の権威はありますが、聖書に裏付けられていない場合、誰もが、油そそがれた者であっても、自分の見解を変更する必要があります。


 一回の集会で、かなりの量を読むことができると思います。それは、集まっている人のレベルで読む量は自由に決めることができると思います。
 
 また、人によっては望むならば、祈りをしてもらうこともできると思います。聖書時代の集会においても、祈りは重要な特徴でした。
 
 では、どこで、そのような聖書朗読の集会を設けることができるでしょうか。昔はユダヤ人の会堂で集会が開かれ、またパウロは学校で教えました。(使徒19:9)それで、公共の施設の部屋を借りて聖書朗読の集会を開くのが最初は望ましいと思います。その方が人が集まりやすいです。


 一世紀のクリスチャンは個人の家で集まり合っていました。(使徒12:12)私は、将来的には、個人の家で、そうした集会を開くことが必要だと思いますが、最初からそうできないと思います。
 
 公民館、交流センター、コミュニティセンターなどどこでも、公の施設を借りて集会が開けたらいいと思います。しかし、現時点で、日本では宗教目的で、公共の施設を利用することは難しい場合があります。


 しかし、自治体によって社会教育法などを考慮して、公民館などの宗教目的での使用を許すところがあります。自分でそのような集会をしてみようと考える人が、各自でその努力をしてみなければ、道が開けるかどうかは分かりません。これは、それぞれ自分で行う必要があります。なぜなら、各地で状況は違うからです。


 信教の自由は、憲法で保証されており、公共の施設は、あらゆる人のために平等に利用することが許されるべきです。また、聖書の知識の普及は、人々の教養の向上に貢献します。ですから、私は公共の施設での聖書朗読の集会が許されるべきだと考えます。しかし、すべての自治体や、公共の施設の管理者がそのように考えるとは限りません。


 それで、事情の許される人は、エホバに祈りつつ、ご自分の地域で、そのような集会を開く努力をされるのはどうでしょうか。私も近い将来、自分の住んでいるところで、そのような努力をしていきたいと考えています。まず努力をしてみることです。そして、集会は最低二人で開催できると思います。(マタイ18:20)
 

 昔は大抵安息日に集会は開かれていました。ですから、やはり人々が休む時である日曜日を中心に、集まる人々の都合のいい時間に行えると思います。


 私は、時間はだいたい一時間、あるいは一時間半くらいが妥当だと思いますが、各地で、時間は、出席する人の都合のつく時間でいいと思います。


 どのように人集めをすることができるでしょうか。ネットにお知らせを流すことができますし、利用できるいろいろな広告媒体例えば新聞や広報誌を利用できないかどうか試みてみることができます。公共の施設の掲示板にお知らせを張ることができるかもしれません。それから、もちろん、集会は無料で行われるべきだと思います。(マタイ10:8)


 私は、聖書はエホバの証人の新世界訳が一番望ましいと思います。どうやって出席者の聖書を入手できるでしょうか。一応、エホバの証人支部の出版物の工場に聖書を送ってくれないか頼んでみることができます。また、エホバの証人の関係者に集会での入手を頼むことができるかもしれません。


 しかし、新世界訳が利用できない場合、新共同訳や新改訳や口語訳など他の聖書も使えると思います。


 どうしても無料で使える部屋がない場合、有料の部屋を使うしかないこともあるかもしれません。その場合は、寄付箱を置いておいて、部屋の賃料に当てる必要があるでしょう。可能であれば、エホバの証人や他のキリスト教の施設を借りることができないか尋ねてみることもできると思います。できる限りお金を使わないで集会を開く方が、出席者の負担が軽くなります。


 私は、公共の施設のDVDや画像を投影する装置を用いて、聖書に関係したDVDや画像を示すことができれば信仰を育む助けになると思います。


 私も少しずつこの方向に向けて努力したいと考えています。また、集会をどのように開くか、このブログで聖書に基づいて考えていきたいと思います。


 将来山に逃げる人を組織する必要があります。そのためのネットワーク作りが必要だと思います。しかし、まずその前に、人々が聖書の知識を取り入れ、聖書に信仰を持つよう助ける必要があると思います。そのために、こうした集会が必要だと思います。


 この点で何か提案があったり、うまくいった経験があれば、メッセージ、コメントなどでお知らせください。