歴代第二33章・ヒゼキヤの子マナセ―親の責任

「マナセは治めはじめたとき,十二歳で,エルサレムで五十五年間治めた。そして彼は,エホバがイスラエルの子らの前から追い払われた諸国民の忌むべきことにならって,エホバの目に悪いことを行なった。それで彼は,その父ヒゼキヤが取り壊した高き所を再び築き,バアルのために祭壇を立て,聖木を造り,天の全軍に身をかがめ,これに仕えはじめた。」(歴代第二33:1〜3) 

 
 ユダの王マナセはエホバの目に良いことをしたユダの王ヒゼキヤの子でした。ところが、マナセはヒゼキヤがせっかく偶像崇拝を取り除きエホバの崇拝を復興したその努力をだいなしにしてしまいました。


 マナセは、エホバの目に正しいことをしようとするヒゼキヤの努力を見ていたはずであり、そのゆえにエホバがヒゼキヤを祝福されたことも見ていたはずですが、偶像崇拝とバアル崇拝をユダ王国の中で再び大々的に始めました。

 
 聖書はヒゼキヤの親としての落ち度を指摘してはいません。ただ単にマナセがエホバの目に悪いことを行なったことを述べています。


 ヒゼキヤはエホバの崇拝者として良い模範を示し、エホバの律法を教えるようにも努力を払っていたはずです。(歴代第二31:4,20)それでも、彼の子マナセは、偶像崇拝者になりました。このことは、親がエホバの崇拝者として良い模範を示しただけでは、子どもがエホバの良い崇拝者になるとは限らないことを示しています。

 
 それは、子供は自由意志を持っているからです。親の模範と教えの影響は完全ではなく、子供はおのおの自分でその崇拝する者を選ぶことになります。


 エゼキエル書には、「罪を犯している魂―それが死ぬのである。子が父のとがのゆえに何かを負うことはなく,父が子のとがのゆえに何かを負うこともない。義なる者の義はその人自身に帰し,邪悪な者の邪悪はその人自身に帰する。」という言葉があります。(エゼキエル18:20)


 それで、エホバの崇拝者が子供を神の道のうちに育てようと妥当な努力を払ったのなら、子供がエホバの崇拝者にならずに、罪を犯したとしても、その罪をエホバは親に問われることはされないことが分かります。エホバの崇拝者は、もし、子供が偶像崇拝者になり素行が悪いならば、心が痛むことですが、その責任を必要以上に感じる必要はないということが分かります。


 しかしながら、父親のヒゼキヤの模範とエホバの預言者の言葉は、どこかマナセの心にひっかかっていたのでしょう。後になってマナセはエホバから悩ませられた時、へりくだって悔い改めました。(歴代第二33:12)それで、エホバの道を教えようとする親の努力は、いつか良い実を結ぶ可能性もあることが分かります。