歴代第二6章・神の是認と保護を失う結果

「もし彼らがあなたに対して罪をおかし(罪をおかさない人はひとりもいないのですから),あなたが彼らに対してやむなくいきり立たれ,彼らを敵に渡し,彼らを捕らえる者たちが彼らを実際にとりこにし,遠くの,あるいは近くの地に連れ去り」(歴代第二6:36)


 神の是認を失うと悪いことが起こるでしょうか。ソロモン王の言葉によると古代の神の民イスラエルが敵に打ち破られて、敵に渡されとりこになって連れ去られてしまったのは、神に対して罪を犯したために、神の是認と保護を失ってしまったためであることが分かります。また、ソロモンの言葉によると、神の民の罪のために天が閉ざされて雨がなくなることもありました。(歴代第二6:26)


 昔のイスラエル国家には実際、エホバを捨てたために外国に戦争で負け、とりこになって連れ去られるということが実際に起きました。昔イスラエル十部族王国がエホバを捨てたので、アッシリアに敗北し、アッシリアに連れ去られました。次いで、ユダ王国がエホバに罪を犯して神を捨てた結果、バビロンに敗北し、バビロンに連れ去られました。西暦一世紀、神のみ子を殺害して全体としてエホバを退けたエルサレムユダヤは、西暦70年にローマ軍によって絶滅させられました。


 また、アハブ王の時代に、バアル崇拝のゆえにイスラエルでは雨が降りませんでした。(列王第一17:1)しかし、今日、雨が降らなかったりしても、それが神の不興の現れであるということを示す手段がないのですから、神の是認を失った結果、雨が降らないということはないでしょう。

 
 また、今日の真のクリスチャンは神の敵と文字通り戦うということはしないのですから、戦争に行って敵に打ち破られてとりこになるということはありません。けれども、やはりクリスチャンが神に罪を犯してしまうと、神の是認と保護を失ってしまいますから、悪いことが起こるということはあるでしょう。


 けれども、イエスはクリスチャンが迫害者に迫害され、苦しめられ殺されることさえあるということを予告されました。(マタイ5:10,11;10:23;23:34)ですから、クリスチャンが苦難を経験する時、すべてが神の是認を失った結果であるとは決して言えません。神の是認を得ているクリスチャンであっても、苦難を経験することもあります。


 過去の是認された神の民が苦難を経験したことがあったことがそのことを示しています。たとえば、パウロや初期クリスチャンは神に是認されていましたが、迫害と苦難を経験しました。


 しかし、例えば、大いなるバビロンが大患難による滅びを経験することになるのは、彼らが神の是認と保護を完全に失ってしまった結果となります。(啓示19:2)


 それで、真のクリスチャンは苦難を経験することもありますし、苦難のすべてが神に罪を犯した結果ということは言えませんが、私たちは神に罪を犯して神の是認を失ったために苦難を経験することのないように、神に罪を犯さないように努力を払うべきです。