啓示13章・野獣の崇拝とは何か

「そしてわたしは,その頭の一つがほふられて死んだかのようになっているのを見た。しかし,その致命的な打ち傷はいえた。それで,全地は感服してその野獣に従った。そして彼らは,野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し,また,『だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか』と言って野獣を崇拝した。」(啓示13:3,4)


啓示13章によると、十本の角と七つの頭を持つ第一の野獣が登場します。(啓示13:1)啓示13章3節によると、第一の野獣は、致命的な打ち傷を受けますが、回復します。そして、その後、全地の人々は、龍と野獣を崇拝するようになります。


では、野獣を崇拝するとはどうすることですか。イエスは「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」と言われました。(マタイ22:21)それで、クリスチャンは、カエサルに服するべきですが、神のものである崇拝は神にささげるべきです。また、ペテロと他の使徒たちは、「私たちは自分たちの支配者として人間より神に従わなければなりません」と述べました。(使徒5:29)それで、もし、私たちが支配者として神に従うことをやめてしまい、人間の支配者だけに盲目的、絶対的に従うなら、野獣を崇拝することになります。


野獣の崇拝とは実生活の中で何を意味するでしょうか。啓示13章の第一の野獣とは、主の日における国家や政治勢力や政治支配者を含む政治組織全体を意味しています。また、その野獣の像とは国際連合を表しています。それで、政治組織のどんな部分に対する崇拝も野獣の崇拝と言えます。


野獣の崇拝がどんな行為を意味するか、次のような聖書の事例は判断する助けになります。悪魔はイエスにひれ伏すという「崇拝の行為」を求めました。イエスは、「神エホバを崇拝しなければなら(ない)」と述べてサタンの申し出を拒絶されました。(マタイ4:9,10)また、ダニエルの三人の友は、バビロンの王ネブカドネザルを表わす金の像をひれ伏して崇拝することを偶像崇拝として拒みました。(ダニエル3:18)こうした聖書の事例は私たちが野獣の崇拝また、野獣の崇拝の行為は何であるかを各自自分で良心的に適用し判断するのに助けになります。


例えば、第二次世界大戦中に日本では天皇崇拝が強要されました。あるクリスチャンは、天皇の写真に対して敬礼することは、偶像崇拝であると判断しました。また、ドイツでナチス党のヒットラーに対して、ハイルヒットラーと言って敬礼することを多くのエホバの証人ヒットラー崇拝の行為であると考え拒否しました。また、多くのエホバの証人アーミッシュは国旗敬礼や国家に忠誠を宣誓することも国家に対する偶像崇拝であると考えます。厳密にどんな行為が野獣の崇拝になるかは個人の良心に基づく個人的判断が関係します。ですから、私たちはおのおのどんな行為が野獣の崇拝であるか判断して、他の人の判断と決定を性急に裁くことのないようにする必要があります。


また、イエスはクリスチャンに「平和を求める人たちは幸いです」、「あなた方の敵を愛しつづけなさい」と言われました。(マタイ5:9、5:44)それなのに、政府が私たちに武器を取って敵と戦い、人を殺すようにというならば、どうすべきでしょうか。明らかに、政府が要求する事が真っ向から、神のご要求と対立します。もし、そういう場合に、人間の政府の要求に盲目的に従うならば、私たちは野獣を崇拝する事になります。それで、良心的拒否を行なうことは、野獣の崇拝を拒否していることになります。


  それで私たちは「だれがエホバ神に等しいだろうか。いったいだれがエホバ神と戦いうるだろうか」と考えるべきです。(イザヤ40:25)エホバ神は全能者であられ、エホバ神に等しい人や組織は存在しません。かえって、エホバ神にとって「諸国民は手おけの一しずくのようであり,彼らははかりの上の塵の薄い層のようにみなされた」と述べられています。(イザヤ40:15)それで、人間や人間の組織、政治支配者や国家や国際的な組織がいかに人間の目に偉大で強力なものに見えたとしても、私たちは野獣の崇拝を避け、エホバ神を崇拝すべきです。