エレミヤ26章・占いと聖書の預言の違い

「わたしが彼らに話すようあなたに命ずるすべての言葉を話さなければならない。一言も取り去ってはならない。彼らは聴いて,各々その悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば,その行ないの悪のゆえに彼らに下そうと考えている災いをわたしは悔やまなければならないであろう。」(エレミヤ26:2,3)


 占いと聖書の預言はどのように異なっているでしょうか。多くの占いなどは,ある特定の時にあることが起こると予告します。それには、条件はついていません。そして、その通りになることもたまにはあるかもしれませんし、多くの場合はずれるかもしれません。聖書の預言はそうした占いとは異なっています。


ユダのエホヤキム王の王政の初めに、エホバの言葉が預言者エレミヤに臨んで、エホバの家の中庭で、エホバの言葉をすべて話すようにと命じられました。その時、エレミヤは冒頭の聖句のようにエホバに言われました。このエホバの言葉から、エホバの預言に関してどのようなことが分かるでしょうか。


 聖書の預言は、エホバ神の道徳基準、特定のご要求と結びついています。聖書がどこかの国家や組織の滅びを預言する場合、それはその国家や組織が神の律法に違反して神の目に悪いことを行っているからです。もし、その国家が神の滅びの預言的な警告に答え応じて、行ないを改めた場合は、滅びをもたらすというエホバ神の宣告は、撤回されます。ですから、聖書の預言は柔軟性があると言えます。


たとえば、預言者ヨナが宣べ伝えた時、アッシリアのニネベの人々は、悪を悔い改めました。ヨナがニネベの人々に40日のうちにニネベが滅びると宣べ伝えて、ヨナ書を書き終えたのが、西暦前844年とされています。しかし、ニネベの人々はヨナの預言を聞いて悪を悔い改めました。それで、ニネベが実際に、カルデア人とメディア人の手に落ちたのが、西暦前632年とされています。ですから、ニネベは、神の言葉にある神のご要求に応じたので、実に約200年もその存続期間を延ばしました。


また、エレミヤの時代にあるユダの年長者は次のような事実を語りました。預言者ミカがユダの王ヒゼキヤの時代に「エルサレムはただの廃墟の山とな(る)」と預言しましたが、ヒゼキヤは「エホバを恐れ、エホバのみ顔を和めたので、エホバは彼らに対して語った災いを悔やまれ(ました)。」(エレミヤ26:17〜19)ユダの王ヒゼキヤがエホバの目に正しいことを行ったので、ヒゼキヤの時代には、エルサレムに滅びが臨むことはありませんでした。


このことは、ユダの良い王ヨシヤの時にも生じました。ヨシヤはエホバの言葉を聞いて、へりくだったので、ヨシヤの時代に滅びが臨むことはありませんでした。(列王第二22:19,20)


大いなるバビロンについての預言にもそのことが言えます。大いなるバビロンの滅びが警告されている理由は、とりわけ、その流血のためです。大娼婦が諸国家と連合し、全地で軍事的攻撃を行い人々の血を流したからです。(啓示17:2)また、大いなるバビロンは、神の民を迫害し、その血に酔うとも予告されています。(啓示17:6)その点で、大いなるバビロンが、神の目に正しいことを行なうよう努力を払うならば、努力を行なう大統領の時代に大娼婦の滅びが臨むことはないと言えるでしょう。


しかし、もし大いなるバビロンが同じように流血を続けるならば、大いなるバビロンの滅びは必ず、臨むことでしょうし、大患難は足早にやってくることでしょう。