テモテ第二3章・ヨハネへの啓示をどのように解釈するか

「聖書全体は神の霊感を受けたもので(す)。」(テモテ第二3:16)


 ヨハネへの啓示の中には、多くの不可解な象徴表現が数多く含まれています。その象徴表現はどのように理解できるのでしょうか。


  その象徴表現を自分で、世俗の象徴などを手がかりにして自分で判断しようとするべきではありません。聖書全体は、神の霊感を受けたものであるということは、聖書の筆者は何十人もいるにしても、聖書の著者はエホバ神おひとりであることを意味します。(テモテ第二3:16)エホバ神が聖書のある語句や表現を使われる場合、エホバ神はその意味をご存知の筈です。


 それで、エホバ神は、啓示の書の象徴表現を理解するための助けをヨハネへの啓示の書そのもの、もしくは、聖書の中のそれ以外の書の中にヒントを含められた筈です。それで、ヨハネへの啓示の中のある語句や表現が理解できない場合、聖書の他の部分にある同様の語句や表現を参照して、理解を深めることができます。(コリント第一14:33)


 ただ、ある語句や表現に、二つ以上の意味がある場合もあります。さらに、聖書の中の語句や表現には文字通りの意味に解釈すべきものもあれば、比ゆ的な意味があると理解すべきものもあります。それは、文脈にそって慎重に考慮する必要があります。


 聖書にはこう述べられています。「行なわれたもの。それが行なわれるようになる。したがって日の下には新しいものは何もない。」(伝道の書1:9)ある人々の集団は以前に存在した同種の人々の集団と同じようにふるまう傾向があります。イエスは人の子の日にはノアの日に起きたとおりのことが起こり、またロトの日に起きたとおりのことが起こると言われました。(ルカ17:26,28)ですから、ある人、またある人々の集団がどのように行動するかエホバは予知なさることができます。(創世記49:3〜27)


 それで、私たちも、ある人々の集団と同種の過去の人々の集団がどのように行動したかを、聖書の記録や預言から調べて、ヨハネへの啓示の預言を理解する助けとすることができます。


 さらに、エホバ神が神の民または諸国の民のある特定の態度にどのように応じられるかは古代も現代も基本的には変わりません。(イザヤ43:13)それは、エホバが常に同一の道徳基準を持っておられるからです。


 それで過去に記された事から、聖書の預言の理解を深めて、世界の終わりに臨んでいる私たち神の僕は警告を受け、希望を持つことができます。(コリント第一10:11)それで、ヨハネへの啓示の書を理解する助けは、他ならぬ聖書自体の中に見い出されます。聖書そのものを深く研究すべきです。


 しかしながら、ヨハネへの啓示の書の預言と、実際の出来事を結び付けるには、一般社会の状況や歴史や、神の民の状況や歴史についての妥当な知識を持っている必要があると言えます。それは、多くの場合、書物などで調べるしかないでしょう。ヨハネへの啓示の書は、神の民の歴史や状況について取り扱っているのですから、神の民自身が解釈するのに一番良い立場にあると言えます。