黙示録1章・陰府とは何ですか(新共同訳)

『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』(黙示録1:17,18)


 黙示録の中でイエスは死と陰府の鍵を持っておられると述べられています。これは、どういう意味でしょうか。ヨハネ5章28節には、墓の中にいる死者が人の子イエスの声を聞いて出て来る、つまり復活してくることが予告されています。それでイエスは、鍵で扉を開けるように陰府を開けて死者を呼び出す、つまり復活させることができるという意味でしょう。


 では、陰府とは何でしょうか。ある国語辞典は、「よみ」を「死者の霊魂が行くという地下の国。あの世。めいど」と定義しています。死者の霊魂が行く地下の国があるのでしょうか。また、ジェームズ王欽定訳は同じ言葉を「地獄」と訳しています。陰府は死者に責め苦を与える地獄を意味しているのでしょうか。


 新改訳では、黙示録1章18節で新共同訳で陰府と訳されているギリシャ語をただ音訳して、「ハデス」と訳しています。新世界訳も「ハデス」と訳しています。現代の多くの翻訳でも、「ハデス」となっています。


 ところで、新共同訳の使徒2章27節には、「あなたはわたしの魂を陰府に捨てておかれず」という詩篇の言葉がイエスに成就したことが述べられています。それで、陰府とは、キリストが復活するまでおられたところです。ですから、陰府とは、死者に責め苦を与える地獄のはずがありません。なぜなら、全く罪のないイエスが死者に責め苦を与えるいわゆる火の燃える地獄におられたはずがないからです。


 また、エレミヤ32章35節の中で、エホバ神はイスラエルの人々が息子や娘たちを火のうちにモレクにささげたことについて、「わたしはこのようなことを命じたことはない」と述べ、その行いを「忌むべき行い」と述べておられます。(歴代第二28:3)


 それで、エホバ神は人間を火の責め苦にあわせることを、命じたり喜ばれたりすることはありません。それは、エホバにとって忌むべきことです。エホバは、人間を永遠に責め苦に遭わせて苦しめるような残酷な方ではありません。エホバ神は人を永遠の責め苦に遭わせる陰府、地獄を創造されませんでした。


 では死者の霊魂は陰府という死者の世界にいるのでしょうか。


 コヘレトの言葉9章10節には、「いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」とありますから、陰府では、考えたり活動したりできないということが分かります。実際、コヘレトの言葉9章5節には、「死者はもう何ひとつ知らない」と述べられています。それで、陰府では、死者は意識はありません。


 それで、聖書は死者の状態は意識が無い、全く無の状態であることを述べています。それで、死者の意識ある霊魂は存在しませんし、死者の霊魂が存在しているような場所があるわけではありません。


 そして、陰府とは、死者が復活によって出てくるまで待っている状態を表わしていることがことが分かります。死者は陰府で意識がありませんが、エホバ神によって復活により命を再び与えられて初めて、再び意識ある存在になります。もし、陰府に意識ある死者の霊魂が存在するのであれば、エホバ神が死者を復活させることも必要がないわけです。


 陰府はいわば象徴的な場所です。陰府は、死者の意識ある霊魂が行く特定の場所ではありません。陰府またはハデスとは、死者が復活によって出てくるまで待っている状態を表わしています。死者が生きている地下の世界が実際に存在しているわけではありません。


 それで、陰府もしくはハデスとは、死者が行く一般的な意味での墓であることが分かります。そこで、死者は無意識であり、イエスが陰府のかぎを使って復活させてくださるのを待っています。私たちはイエスが死者を地上が楽園になった時に、地上に人間として復活させてくださる時を楽しみに待つことができます。