創世記49章・愛されなかったヤコブの妻レアの信仰

「その後[ヤコブ]は彼らに命じてこう言った。『わたしは自分の民のもとに集められようとしている。わたしを,ヒッタイト人エフロンの畑地にある洞くつに父たちと一緒に葬ってほしい。・・・そこにはアブラハムとその妻サラが葬られた。そこにはイサクとその妻リベカも葬られた。そしてわたしはそこにレアを葬った。』」(創世記49:29,31)


 エホバは昔、夫に愛されなかった女性レアの信仰に注目されました。昔神はイスラエル人の男が二人以上の妻を持つことを許していました。それで、ふたりの姉妹はひとりの人ヤコブの妻になりました。


 姉のレアは妹のラケルよりも美しくありませんでした。「レアの目には輝きがなかったのに対し,ラケルのほうは姿が美しく,顔だちも美しかった。」と聖書の記録は、述べています。(創世記29:17)人間は外見を見る傾向があります。それで、夫のヤコブも、美しさのゆえにレアよりもラケルを愛しました。 (創世記29:18)


 また、ヤコブは妹のラケルと結婚することを望んでいたのに、レアは、父ラバンの策略により、妹ラケルよりも先にヤコブの妻になったのでした。(創世記29:22,23)しかし、レアはそうすることを望んでいなかったのに、父親ラバンの命令で仕方なく、父親ラバンと共に、ヤコブを欺いてヤコブの妻になったのかもしれません。あるいは、レアも父ラバンの策略に協力したのですから、ヤコブを愛していたのでそうしたのかもしれません。


 夫のヤコブは、その外見のためにもともとレアよりもラケルの方を愛していました。また、ヤコブは、ラケルのためにラバンのもとで七年働いていたのですが、レアのためにヤコブは七年余分にラバンの下で羊飼いとして働かなければなりませんでした。愛していなかったレアのために働くのは、ヤコブにとってストレスになったことでしょう。そのストレスのために、ヤコブはますますレアに対して冷たくなったかもしれません。


 レアは夫のヤコブの愛が妹ラケルにあることに気づいていました。「[ヤコブ]はラケルとも関係を持ち,しかもラケルに対してレアに対する以上の愛を示した。」と聖書の記録は述べています。(創世記29:30)ヤコブはレアを全く愛さなかったとは、聖書は述べていませんが、それでも、レアは、自分がラケルのように愛されていなかったことが、つらくてたまりませんでした。


 しかし、レアはエホバに信仰を持っていました。このようなどうしようもない状況の中で、レアは、どのように対処したでしょうか。


 レアは、自分の個人的な悩みをエホバに訴えました。夫のヤコブが自分に対してやさしくしてくれるように、エホバに嘆願しました。すると、エホバはレアの嘆願に答え応じられました。「エホバはレアのほうがうとまれているのをご覧になってその胎をお開きになったが、ラケルのほうはうまずめであった。」と述べられています。(創世記29:31)


 エホバは愛されない妻というたいへん個人的な問題に同情されて、レアの祈りに耳を傾けられたということが分かります。私たちは、エホバがたいへん個人的な問題に関しても、耳を傾けてくださることを確信できます。


 レアは妊娠して男の子を産み、その子をルベンと名づけました。レアはルベンという息子が与えられたので、「エホバがわたしの惨めさを見てくださったので、いま夫はわたしを愛してくれるようになるから」と言いました。(創世記29:32)


 レアは、夫に愛してもらいたいということをエホバに訴えていました。昔は、子供を出産することは妻にとって大いに誉れとなることでした。レアは、ヤコブの長男ルベンを出産したことで、エホバに祈りを聞いていただいたように感じたことでしょう。


 彼女は再び妊娠して男の子を産み、レアは、「エホバは聴いてくださり,わたしがうとまれていたのでこの子をも与えてくださったのです」と言いました。レアは、エホバがレアの嘆願を聞いてくださったことにちなんで、その子を「聞くこと」という意味のシメオンと名づけました。ヤコブの気持ちは長男の出産でも、そう変わらなかったので、レアは、エホバに祈り続けていたことが分かります。


 レアは、またも妊娠して男の子を産み、その子をレビと名づけました。レビとは、「固着; 共になった」という意味です。レアは、「今度こそ夫はわたしと共になってくれるでしょう。わたしはあの人に三人も男の子を産んだのですから。」と言って、レビという名をつけました。


 そしてレアは、もう一度妊娠して男の子を産み,その子をユダと名づけました。ユダとは、「たたえられた; 称賛の的」という意味です。レアは、「今わたしはエホバをたたえます」と言いました。ですから、レアは、夫のヤコブから愛されないという感情的につらい状況にあってエホバに粘り強く祈り続け、エホバは、レアの祈りに答え応じられました。それで、レアは、エホバを賛美し、そのことにちなんで息子に名前をつけました。


 レアは、自分が子を産まなくなったので、はしためのジルパをヤコブに妻として与えました。ジルパは、男の子をふたり産み、ガドとアシェルという名をつけました。


 「それから、神はレア[の願い]を聞いてそれに答え,彼女は妊娠し,やがてヤコブに五人目の男の子を産んだ。」と聖書の記録は、述べています。(創世記30:17)レアは、なおもエホバに辛抱強く祈り続けていたことが分かります。


 レアは、その子をイッサカルと名づけました。イッサカルとは、「彼は報酬 (報酬の人)である」という意味です。 そのときレアは、「わたしが自分のはしためを夫に与えたので、神はわたしにその報酬を与えてくださった」と言っています。レアは、息子を神からの報酬と考えて、それにちなんだ名をつけました。レアは、物事を神中心に考えていたことが分かります。


 それからレアはもう一度妊娠し,ヤコブに六人目の男の子を産んで、その子をゼブルンと名づけました。ゼブルンとは、「寛容」という意味です。 そのときレアはこう言いました。「神はこのわたしに良い賜物を授けてくださった。ついに夫はわたしに寛大にしてくれるでしょう。わたしはあの人に六人も男の子を産んだのですから。」


 ですから、レアはヤコブに愛され寛大にしてもらいたいという難しい問題についてエホバに辛抱強く祈り続けていたことが分かります。そして、エホバは、レアの祈りに答えておられました。それで、レアは、自分の問題を神中心に対処しました。


 最終的に、ヤコブのふたりの妻に対する感情はやはりあまり変わりませんでした。ヤコブは年をとってから、自分の最愛の妻がラケルであったことを言い表しています。(創世記44:27)


 しかし、ヤコブの正妻としてヤコブと共に墓に入れられたのは、レアでした。レアは、最後にヤコブから、ラケルよりも優先されました。このことをレアは復活してから知ることになってもしかしたら喜ぶかもしれません。


 レアは、ラケルよりも美しくなかったので、ラケルよりも夫のヤコブに愛されませんでした。しかし、エホバについては、「人は目に見えるものを見るが,エホバは心がどうかを見るからだ」と述べられています。(サムエル第一16:7) レアは、その信仰のゆえに確かに、エホバには愛されました。レアは、その息子のユダを通してイエスの先祖となるという誉れを受けました。(マタイ1:2,3)


 また、エホバは後になってモーセの律法下で、女をその姉妹に加えてめとることを禁じられました。(レビ18:18)このことは、肉の姉妹と張り合う関係となり、肉の姉妹よりも愛されないというレアの苦しみにエホバが同情しておられたことを示しているでしょう。エホバは、そうした人間の個人的な感情に同情を示される神です。


 しかし、復活した後は、レアとヤコブとの結婚関係は終わっています。イエスは復活した人はみ使いのようになっていると言われました。(マタイ22:30)そして、生きていた時、レアがエホバと培った親密な関係は継続します。レアは復活した楽園においてもエホバに依り頼むことでしょう。


 人間の力ではどうしようもない惨めな状況があるものです。そういう時でも、レアは、粘り強くエホバに祈り続ける点で私たちに模範を残しています。どんな個人的な問題でも、エホバに依り頼むなら、エホバとの親密な関係のうちに慰めを得ることができます。


 私たちも個人的な悩みの場合もレアのようにエホバに祈って神中心に問題を解決していきましょう。そのようにして培ったエホバとの親密な関係はわたしたちの永遠の財産となることでしょう。


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