児童虐待の傷をいやす−その霊的な害

先回、「児童虐待の傷をいやす−その破壊的な影響」を取り上げました。今回、児童虐待の霊的な面における影響を取り上げたいと思います。


霊的な害

児童虐待が及ぼす影響の中でも一番油断のならないのは,霊的な害を招く恐れがあるという点です。性的ないたずらは,『肉と霊の汚れ』です。(コリント第二 7:1)加害者は子供に倒錯行為を行ない,子供の身体面と道徳面の境界線を踏み越え,子供の信頼を裏切ることによって,子供の霊,つまり支配的な精神の傾向を汚します。このことは後に,犠牲者の道徳的また霊的な成長を妨げることになりかねません。


ピア・メロディーも,自著「相互依存と向かい合って」の中で,「どんなものでも激しい虐待は……霊的な虐待でもある。それは,神に対する子供の信頼を損なうからである」と述べています。


例えば,エレンというクリスチャンの女性は,「実の父については,残酷ですぐに逆上する男というイメージがあるのに,エホバを父と考えることなど,どうしてできるでしょうか」と言います。テリーという別の被害者も,「エホバを父とみなしたことは一度もありません。神,主,主権者,創造者ならだいじょうぶです。でも父というのは駄目なんです」と言っています。


このような人たちは,必ずしも霊的に弱い人,あるいは信仰の欠けた人ではありません。むしろ,聖書の原則に従おうとたゆまず努力しているのですから,霊的な強さがうかがえます。


しかし,例えば詩編 103編13節などの聖句を読む時,ある人たちがどう感じるかを想像してみてください。その聖句はこうなっています。「父が自分の子らを憐れむように,エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった」。頭ではこの聖句を理解できるかもしれません。しかし,父親に関する健全な見方がなければ,この聖句に感情面で反応するのは難しいでしょう。


神のみ前で「幼子のように」なるのが難しいと思う人もいるかもしれません。幼子は傷つきやすく,謙遜で,人を信頼します。しかし,「幼子のように」なるのが難しい人は,祈る時にも,神に本当の気持ちを打ち明けないかもしれません。(マルコ 10:15)


また,詩編 62編7節と8節にあるダビデの次の言葉を自分自身に当てはめるのをためらうかもしれません。「わたしの救いと栄光は神にある。わたしの強固な岩,わたしの避難所は神のうちにある。民よ,いつでも神に依り頼め。そのみ前にあなた方の心を注ぎ出せ。神はわたしたちのための避難所である」。それで、被害者は神を信頼して、依り頼んだり、神に心を注ぎだすことができないと感じるかもしれません。


罪悪感や,自分は駄目な人間だという気持ちは,信仰を損なうことさえあります。ある被害者は,「エホバの王国は心から信じていますが,自分はそこにいられるほど清い人間ではないと思うのです」と言いました。


それで、幼少期に虐待を受けたために、ある程度、神との健全な関係を築けないと感じても、驚くべきことではありません。もちろん,すべての犠牲者が同じような影響を受けるわけではありません。中には,愛情深い父としてエホバに引き寄せられ,エホバとの関係に全くわだかまりを感じていない人もいます。いずれにせよ,もしあなたが子供のころに性的な虐待を受けた方であれば,その虐待があなたの人生にどれほど影響を及ぼしたかを見極めることには大きな価値があると思われるかもしれません。


問題をそのままにしておくことで満足している人もいます。しかし,たとえ甚大な被害を受けたと思える場合でも,元気を出してください。傷をいやすことは可能なのです。


[脚注]
この記事でおもに考えているのは,聖書が言うポルネイア,つまり淫行です。(コリント第一 6:9。レビ記 18:6‐22と比較してください。)これには,あらゆる形の不道徳な性交が含まれています。ポルネイアではないものの,露出症,窃視症,ポルノを見せることなど,他の虐待行為も子供の感情を傷つけることがあります。


子供には大人を信頼する傾向があるので,信頼している家族や年上の兄弟,家族の友人,場合によっては見ず知らずの人による虐待も,そうした信頼に対する残酷な裏切りになります。


 次回は、「児童虐待の傷をいやす−思い出すことによって」をアップしたいと思います。

以上の記事は、目ざめよ!1991/10/8号「児童虐待の傷をいやす」を参考に作成されています。


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