ヨブ21章・ヨブは邪悪な者が繁栄する事実を指摘する

「どうして、邪悪な人々が生き続け、年老いて、しかも富においても勝っているのか。」(ヨブ21:7)


ヨブは、三人の友との論議の際に、邪悪な者が繁栄する事実を指摘しました。ヨブの指摘は正しかったでしょうか。私たちは、ヨブの述べたことから、どのような教訓をくみ出せますか。


ヨブの三人の友は、ヨブが災いに遭ったのを見て、ヨブが邪悪なことを行っているからに違いないと言いました。彼らは、邪悪な人は、必ず神からの災いに遭うことなると言いました。


彼らの論議に対して、ヨブは、ヨブ21章では、冒頭の聖句に代表されるように邪悪な者が長生きし、繁栄する事実を指摘しました。さらに、ヨブ21章の続く聖句の中で、ヨブは邪悪な人の子孫が無事で、「堅く立てられている」ことや、邪悪な人の「家は平和そのもので」「神の杖は彼らの上に臨まない。」という事実を指摘します。(ヨブ21:8,9)


神の杖とは、人が不当なことをするときに、戒めのために与えられるむち打ちとなる災いのことです。(サムエル第二 7:14)神の杖、すなわち懲らしめとなる災いは邪悪な者に、いつもすぐに臨むわけではありません。


また、邪悪な者の家畜も、子供を産んで無事に繁殖し、流産を起こすこともないことがあります。(ヨブ21:10)邪悪な者の家の幼い者たちは、タンバリンやたて琴、笛の音に合わせて踊って歓びます。(ヨブ21:11,12)


 彼らは、日々を幸せのうちに過ごします。そして、彼らは、まことの神に向かって、「あなたの道についての知識を我々は喜んでいません。全能者は何者だというので、我々はこれに仕えなければならないのか。我々が彼と接したところで、我々にとってどのように益となるのか。」と言います。(ヨブ21:13〜15)


 それで、ヨブは、神に信仰を持たず、敬意を払わない邪悪な者が、幸せのうちに暮らす事実を指摘して、自分が災いを経験していても、邪悪な者とは言えないと三人の友に反論しました。


ヨブの指摘は正しいものでした。なぜなら、イエスは、感謝しない邪悪な者に対しても、神が親切であられ、物質的祝福を享受することを許されると述べておられからです。(ルカ6:35。マタイ5:45)


また、パウロは、「過去の世代において,[神]は諸国民すべてが自分の道を進むのを許されました。とはいえ,ご自分は善いことを行なって,あなた方に天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなた方の心を存分に満たされたのです」と述べました。


ですから、神がご自分を無視する人類一般に対して善を行なって、物質的な祝福を享受することを許されることを聖書は示しています。(使徒14:16,17)


 それで、邪悪な者が繁栄することを指摘したヨブの言葉は事実と調和していました。聖書は、エホバが大変辛抱強い方であり、邪悪な者が悔い改めることを願って十分な時間を猶予され、邪悪な者が繁栄を享受することを許されることを示しています。(ローマ2:4。ペテロ第二3:9)一方、神に信仰を持つ人であっても、ヨブのように災いを経験することもあります。


しかし、エホバは公正の神です。究極的には、ご自分に信仰を働かせるご自分の民に報いを与え、邪悪なことを行なって悔い改めることをしない諸国民を裁かれる時がきます。聖書は神が「忠節な者には,あなたは忠節をもって行動(される)」ことを述べています。(詩編18:25)


 私たちは、エホバの寛大さのゆえに物質的繁栄を享受できている時、エホバ神に感謝しましょう。また、エホバ神から猶予されている時間を用いて、エホバの前に悔い改め神に信仰を築き神の律法に従って歩むようにしましょう。





エホバの祝福を感謝しましょう



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