エゼキエル2・3章・神の預言者に与えられた責任


 エゼキエルは、バビロンにいました。(エゼキエル1:3)そして、エホバ神はエゼキエルに天のエホバ神の幻を与えました。その後、エゼキエル3章によると、エホバ神はかたくななイスラエル人に警告を与える「見張りの者」として、預言者エゼキエルを任命しました。(エゼキエル3:17) 



See-ming Lee
エゼキエルは神により高い塔で見張りに立つ見張りの者として任命されました
 

エゼキエルはどんな責任を与えられたのでしょうか。イエスはクリスチャンの預言者の責任についてどのようなことを述べているでしょうか。

 エゼキエルはイスラエル人と共に、その罪のゆえに、故国のユダとエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて来られていました。


 それは、イスラエルの罪に対するエホバの罰であったので、イスラエル人はエホバの言葉が成就したことを考えて、エホバの前にへりくだるべきでした。しかし、エホバ神は、エゼキエルに対してイスラエルの家が、「反逆の家」であると何度も言われました。(エゼキエル2:5,6)イスラエル人のかたくなで反抗的な態度は、エホバ神からの罰を受けてもなかなか改まりませんでした。

 エゼキエルはイスラエル人が「聞こうが聞くまいが」神の言葉を語らなければなりませんでした。(エゼキエル2:7)それは、イスラエル人の中に神の「預言者が自分たちの中にいた」ことを示すためでもありました。(エゼキエル2:5)


 エホバがエゼキエルに与えた責任はとても重大なものでした。エゼキエルの言葉によって人々は命を得ることもあれば、命を失うこともありえました。そのため、エホバ神は、もしエゼキエルの怠惰のために、人々が命を失うことになれば、失われた命の責任をエゼキエルに問われる、つまりエゼキエルの命を要求すると言われました。(エゼキエル3:18)


 エゼキエルは神の言葉を聞き、人々に警告を与える責任がありました。エホバ神が邪悪な者に、「あなたは必ず死ぬ」と言う時、もしエゼキエルがその言葉を邪悪な者に伝えないなら、邪悪な者は、そのとがのために死にます。しかし、エホバ神は、エゼキエルの怠慢のために、失われた邪悪な者の「血の返済」をエゼキエルに求めます。(エゼキエル3:18)


 一方、エゼキエルが警告したのに、その邪悪な者がその邪悪な道から立ち返らないなら、その者は、そのとがのために死にます。しかし、エゼキエルはその邪悪な者の死について責任を問われません。エゼキエルは自分の命を救い出したことになります。(エゼキエル3:19)


 また、義なる者がその義の道を離れ、エゼキエルがその人をそのままにして、警告を与えならならば、以前義なる者であった者はその罪のために死ぬことになります。しかし、エホバはエゼキエルにその人の血の返済を求められます。(エゼキエル3:20)


 また、エゼキエルが、義なる者に警告を与え、義なる者が:警告を受けて罪を犯さないならば、義なる者は生き続け、エゼキエルも自らの命を救い出すことになります。(エゼキエル3:21)


 ですから、エゼキエルは自分の命も他の人の命も左右する仕事をエホバ神から与えられました。エホバ神はクリスチャンにも同様な仕事を与えられています。エホバ神はクリスチャンに神の王国を宣べ伝えて、キリストの教えを伝えるようにという務めを与えられました。(マタイ24:14;28:19,20)



ezekiel
エゼキエルは神の言葉から人々に警告を与える責任を神から課せられました





クリスチャンはエゼキエルと同じように神の言葉から警告を与える責任があります






それで、人々が神の基準に調和した生活をしていてもいなくても、クリスチャンも基本的に他の人々に神の警告を伝える責任があります。そして、その音信を伝えることは自分と他の人の命を左右します。


 しかし、キリストの言われることは道理にかなっています。イエスは、神聖なものを犬に、真珠を豚に与えないようにと言われました。それは彼らが向き直ってクリスチャンに害を与えることのないためです。(マタイ7:6)それで、暴力的な邪悪な人、聖書の基準を守らない人、迫害者には、クリスチャンの安全を図るために聖書の音信を伝えることを差し控えることが勧められています。


 また、キリストは、クリスチャンにある町で宣べ伝えていて、迫害された場合、殉教してまで宣べ伝え続ける必要はないと言われました。その場合は、その町から逃げて、別の町で宣べ伝え続けるようにと言われました。(マタイ10:23) 


 使徒パウロは神が自分に課した人々の血に対する責任を自覚していました。パウロユダヤ人にもみ言葉を熱心に宣べ伝えましたが、ユダヤ人があしざまに言い続けた時、パウロは「あなた方の血」に関して自分は「潔白です」と言いました。そして、パウロは、「諸国の人たちのところに」行って宣べ伝えると言いました。(使徒18:5,6)


 それで、聖書の音信を聞こうとしない人々、クリスチャンを迫害する人に聖書の音信を無理に伝えることは、クリスチャンに求められていません。しかし、パウロは許される状況の中で最善を尽くしたので、血の責任は自分にはないと言いました。


 しかし、パウロが最善を尽くして宣べ伝えたので、神がパウロに責任を問われてそのためにパウロが神から命を求められることはありませんでした。そして、パウロは永遠の命を確保し、パウロが将来復活することは保証されていました。さらに、パウロは大勢の人々が神からの命を捕えるように助けました。



Saint Paul delivering the Areopagus sermon in Athens, by Raphael, 1515
パウロは最善を尽くして宣べ伝えたので神から責任を問われて命を失ういわれはないと言いました


 クリスチャンが伝える聖書の音信はその人々の命を左右することを考えて、事情が許す限り聖書の音信を伝えて、預言者としての責任を果たすことができます。


David Livingstone preaching from a wagon.
神から与えられた責任を果たして人々の救いに貢献するようにしましょう