善悪の知識の木の実を置くのは不当な事ではありませんでしたか

 ある人々は、愛の神であれば、エデンの園に善悪の知識の木を置くべきではなかったのではないかと考えます。また、ある人は神に対する感謝は善悪の知識の木の実を食べないこととは別の方法でも示すことができたのではないかと言います。


 そのことについて、考えてみましょう。


 エホバ神は確かに愛の神です。(ヨハネ第一4:8)つまり、神は全被造物の最善の益を願っておられます。被造物が永遠にわたって平和に幸福に暮らすことを願っておられます。神は「平和の神」と呼ばれています。(ヘブライ13:20)


 そのために、神はご自分の支配権が被造物にとって必須であることをご存知です。また、エホバ神は、ご自分以外の被造物が支配権を握ると大きな弊害があることをご存知です。(伝道の書4:1。エレミヤ10:23)


 そのことは、歴史を通して諸政府が支配してきた期間、戦争や紛争が絶えなかったことからも明らかです。(伝道の書8:9)エホバ神はそのことを悪魔サタンと人間に自由な支配を許される前からご存知でした。



人間には、神から全く独立して自らを首尾よく支配する能力は与えられていません。聖書は、自分の歩みを導くことは、歩んでいるその人に属していない、つまり、人間が自らの歩みを導けないと言っています。(エレミヤ10:23)


 人間が神を無視して支配することは、「人の前には廉直な道であっても,後にその終わりが死の道となるもの」です。(箴言14:12)聖書を度外視して人間が自らの目に正しいと考えるやり方は、後で人間に害をもたらすことが多いのです。人間は神から独立して、平和と幸福を自らにもたらすことはできないのです。最終的な結果は死となります。




人間は歴史を通して神の支配権を無視して生活してきたので時ならぬ死と争いが歴史上に満ちることになりました




 霊者たちも含めて知的な被造物の支配者としてふさわしいのは、エホバ神だけです。(詩編10:16)エホバ神は人間を含めて万物を創造されたからです。(エレミヤ10:10,11)エホバ神以外の者が神が許される期間以上支配することには弊害があります。そのために、エホバ神はご自分の支配権を擁護されます。



 それで、アダムとエバは一番最初に神の支配権を尊重する重要性を学ばなければなりませんでした。エデンの園の善悪の知識の木は、エホバ神が人間のために善悪を判断する権利、つまり神の支配権を表していました。その木の実を食べる、つまり人間が神を無視して自分で善悪を決めて行動することは、死を意味すると警告されました。(創世記2:17)


 もちろん、神は人間が理性を持っていることをご存知です。私たちは、理性を働かせてエホバ神の決められた善悪の基準が正しいことを判断することができます。そして、私たちは聖書中の神の律法や基準を理性的に考慮すると神の判断が正しい多くの事例を知ることができます。


 しかし、ある場合、エホバ神が人間より知識や先見の明が優れているために、私たち人間は神の基準が正しいことを理解できないことがあるかもしれません。その場合、神の律法を押しのけて人間は自分自身の定めた律法に従うべきでしょうか。




 私たちは、神の判断が賢明であったことを私たちは後になつて理解することがあります。ですから、聖書に明示されている創造者なる神の基準は、いつも賢明であることを認めることが求められます。


 これは、単に聖書に基づかないクリスチャンの意見を盲目的に尊重することを意味してはいません。しかし、少なくとも聖書中に明らかに示されている神の律法をエホバ神は尊重することを求めておられると思います。



 神の支配権に従順であることがアダムとエバにとって最善だったのです。神はご自分が人間の創造者なので、そのことをご存知です。


 神はその教訓を与えるために、善悪の知識の木をエデンの園に置かれました。そして、神はその木の実を食べることを控えることによって、神の支配権を認めていることを示すことができるようにされました。


 確かに、神への感謝を他に表す方法もあります。例えば神に供え物をすることによって、神への感謝を表せるでしょう。しかし、他のどんな方法で、神の支配権を尊重する必要性をアダムとエバに教えることができたでしょうか。


  善悪の知識の木の実を食べることを差し控えるというのは、大変負担の軽い要求でした。アダムとエバは食べる物は豊富に与えられていたのです。(創世記2:16)アダムとエバはただ一本の木の実を食べることを禁じられたに過ぎません。それを食べないからといってアダムとエバが飢えるとか苦しむということは一切ありませんでした。



エホバが禁じられたのは一本の木の実にすぎませんでした
食べるものは豊富にありその要求は重荷とはなりませんでした



 聖書には、神のおきてを守り行うことによって神への愛を表せること、神のおきては重荷ではないと書かれています。(ヨハネ第一5:3)一本の木の実を食べないことは、決して重荷ではありませんでした。それで、エホバ神がごく簡単な要求をアダムとエバに課したのは、決して不当な事ではありませんでした。


 アダムとエバはただ一本の木の実を食べなければ、エデンの園でいつまでも生き続け、エホバ神がふんだんに備えた物を享受することができたのです。例えば、私たちは家を借りる場合、大家に家賃を払います。アダムとエバは命を与えられ神が作られたエデンの園に住まわせてもらっていたのですから、神がアダムとエバに何らかの要求をされたとしても、少しも不当ではありませんでした。


 人間の政府が人間にとって大変重荷となる要求をすることがあるのと対照的に、エホバ神のご要求は何と負担が軽いものだったのでしょう。

 
 それで、エホバ神は愛の神であり、被造物の永遠の福祉を願っておられたからこそ、エデンの園に善悪の知識の木を置かれました。それは、被造物の永遠の平和と幸福を保証するエホバ神の支配権を表していたからです。エホバ神は全知の神であられるので、被造物にとって最善なことをご存知です。


 それで、神は善悪の知識の木の実を食べることを禁じられたので、アダムとエバがそのことを行なうことは必要でした。神のご要求以外のことをしても神に是認されることはありません。


 また、エホバ神のご要求は重荷ではありません。また、エホバ神がエデンの園に善悪の知識の木を置かれたのは少しも不当ではありませんでした。

箴言6章・朝寝と怠惰と酔酒によって貧困に導かれる

 聖書は朝寝を勧めているでしょうか。勧めていません。早起きするようにと勧めています。箴言は、「怠惰な者よ、あなたはいつまで横たわっているのか、いつ眠りから起き上がるのか」と述べて、朝いつまでも、ぐずぐずと床にいることを怠惰であると述べています。(箴言6:9,10)


 聖書は、朝寝と怠惰を戒めています。朝寝をするなら、「あなたの貧しさは浮浪者のように、・・・必ずやってくる。」と述べています。(箴言6:11)箴言の書は、「貧しくならないため」「眠りを愛してはならない。」とも述べています。(箴言20:13)また、「眠気は、・・・ぼろ切れを人にまとわせる」と述べています。(箴言23:21)緩慢な魂、つまり怠惰な人が飢える結果になるとも述べています。(箴言19:15)また、働こうとしないと死に至るとさえ述べています。(箴言21:25)



聖書は居眠りばかりしていると貧しくなると述べています



 また、アルコール中毒になって、いつも眠気を催す人になっているなら、それも、やはり貧困につながると聖書は警告しています。聖書は、「酔いどれ・・・は貧困に陥(る)」と警告しています。(箴言23:20)





 日本には、朝寝と朝からの大酒のために貧困に陥った人のことを歌ったコミカルな歌があります。それは、『会津磐梯山(あいづ ばんだいさん)』という、日本の福島県の民謡です。その歌は、夏祭りの唄としても用いられています。



ソーラン節・会津磐梯山




  その中に、「小原庄助さん 何で身上潰した(しんしょうつぶした)。朝寝 朝酒 朝湯が大好きでそれで身上つぶした。ハア もっともだ もっともだ 」という歌詞があります。身上を潰すとは、財産を使い尽くしてしまうことを意味しています。


 この小原庄助さんのモデルは、江戸時代に材木で大もうけした商人、幕末の同姓同名の志士、会津漆器の塗り師で酒豪の久五郎などがモデルとして挙げられています。どの人が歌で歌われている小原庄助さんかは分からないそうです。


 最初のモデルの商人は、材木商人で会津若松市 の東山温泉で豪遊していたとされています。彼は、かなりの飲兵衛だったそうです。聖書は、「歓楽を愛している者は窮乏に陥る者とな(る)」とも述べています。(箴言21:17)それで、朝寝や朝酒や歓楽を習慣にしている人はどんなに財産がある人でも財産を使い尽くしてしまうでしょう。


  
  もし、私たちがアルコールの大量摂取によって、正常な状態を保てず、働くことができないで、経済的な窮境に直面しているなら、自分の状況を吟味し、アルコール中毒の状況から逃れる必要があります。


 聖書時代の仕事は、農業や自営業だったので、朝早くから自発的に仕事に取り組むことができました。もちろん、現代の仕事は、必ずしも朝の早い仕事ばかりではありません。しかしながら、仕事のタイプがどんなスケジュールのものであっても、聖書は勤勉に働くことを勧めています。


 「勤勉な者の手はその人を富ますものとなる。」と述べています。(箴言10:4)勤勉な者の計画は益をもたらすとも述べています。(箴言21:5)ですから、勤勉さが経済的な収益につながると言っています。 


 確かに非常に負担の大きい仕事の場合、時折休憩を取ることは必要かもしれません。しかし、仕事中に休むことを習慣にしないように聖書は勧めています。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて横たわる。すると、あなたの貧困が追いはぎのように・・・必ずやってくる。」と述べられています。(箴言24:33,34)聖書は、たるんだ仕事の仕方によって貧困に導かれると述べています。(箴言10:4)


 それで、聖書からすると、朝、早起きをして、仕事に取組み、仕事時間中は、できるだけ勤勉に仕事にいそしむことが、貧困を免れる助けになると言っています。


聖書は仕事の実を楽しめない程、働きづめになることを勧めているわけではありません。適度の休憩と楽しみを定期的に得ることを勧めています。伝道の書には、「人にとって、食べ、まさしく飲み、自分の骨折りによって魂に良いものを見させることにまさるものは何もない。」と述べられています。ですから、仕事によって得たお金や物でおいしい食事や飲み物をとることを、「神の御手から」くるものとして楽しむように勧めています。 


 確かに、身体的、精神的に病気で働こうとしても働けない人もいるでしょう。しかし、神が勤勉さを奨励していることを考えると、私たちは自分の状況に安住することなく、病気の治療に取り組みつつ勤勉に働いて経済的に自活することを目指して努力しましょう。私たちは、どんなタイプの仕事をしていても、勤勉に仕事に取り組むならば、それは貧困を免れる助けとなるでしょう。

きれいな人にみとれることはまちがっていますか

「わたしはあなた方に言いますが、女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)



エスは女性を見続けて情欲を抱くことを非とされました。これは、女性を見てその相手と性行為をしている状況を想像するようなことを意味するでしょう。でも、とりわけ若い人は、きれいな人やイケメンに感心してみとれてしまうことが多いものです。このようにすることは間違っていますか。





BEAUTIFUL BLONDE
by roberthuffstutter
美しい人の美しさに平衡のとれた見方をする必要があります


           
きれいな人は事実存在しますが外見に平衡のとれた見方をする必要があります




美しさに対して感銘を受けることは間違っていません。それは人の自然の反応です。人は「目に見えるもの」すなわち人の外見を見ます。(サムエル第一16:7) 男性でも女性でも際立った容姿を持っている人が存在するのは事実です。例えば、サウル王は、「麗しい人」でした。(サムエル第一9:2)また、聖書は、サラやリベカが容姿が美しかったこと、ラケルが「姿が美しく顔立ちも美しかった」ことを述べています。(創世記12:11;24:16;29:17)




私たちは、自然や動物や花の美しさを認めます。同じように、ある人の外見に感銘を受けることがあることを、正直に認めざるを得ないでしょう。でも、それも度が過ぎないように気をつける必要があります。




なぜなら、ノアの時代のみ使いたちが、天での神への奉仕から離れたきっかけは、地上の女たちの外見の良さに動かされたからです。神の子たちは、「人の娘たちの器量の良いことに気づくようになった」と記されています。(創世記6:2)み使いたちは、単に女性の美しさに注目するだけでなく、その女性に対する不道徳な性的欲望を育てました。




また、ダビデがバテ・シバと姦淫を行なったのも、バテ・シバの容姿の美しさに動かされたからです。(サムエル第二11:2-4)ですから、女性の外見に感銘を受けることは、その女性に対して間違った性的欲望を抱くことにつながることがあります。なぜなら、性的欲望は目に見えるものによって刺激されるからです。聖書は「欲望」と「目」を結び付けています。(ヨハネ第一2:16)ですから、イエスの言われたように、過度に異性の外見にとらわれることに気をつける必要があります。




そして聖書は、単なる外見の美しさの価値が限られていることを示しています。例えば、ダビデの息子アブサロムは当時のイスラエルの中で一番麗しい人でしたが、彼は、油そそがれた王であったダビデの王権に敬意を払いませんでした。(サムエル第二14:25) その結果、アブサロムは悲惨な最期を遂げました。




聖書は、「分別から離れていく」「きれい」な人を「豚」になぞらえています。(箴言11:22)これは男性に関しても言えるでしょう。とりわけ、エホバの存在を認めず、神の律法に違反する行ないに陥る人は一番「分別のない者」でしょう。(詩編14:1)ですから、単に外見が美しくても、敬虔な思いを持っていないならば、その美しさは価値がありません。






聖書は美しくても分別から離れていく人を豚になぞらえています





また、聖書は、過去にエホバとの親しい関係を持っていた人が、必ずしも容姿が際立ってはいなかったことを述べています。例えば、イエスは当時のイスラエル人の中で標準的な容姿をしておられたと思われます。なぜなら、十二使徒たちの中で、とりわけ目立った容姿ではなかったので、他の人と容易に見分けられず、イエスを見分けるためにユダは口づけをして知らせる必要があったからです。(マタイ26:48)また、エホバに何度も祈りを聞いていただいたレアは、眼に輝きがなかったと述べられています。(創世記29:17)







エスは際立った容姿ではなく標準的な容姿をしておられたようです





さらに、聖書は、内面的な特質が外見より一層価値があると述べています。箴言は、「美しさもむなしいものとなることがある。」と述べています。年を取って若い頃の美しさが衰える人がいます。しかし、聖書は「エホバを恐れる女は自分に称賛を得る」と述べています。(箴言31:30)ですから、聖書はエホバを恐れるという特質が、どんな外見の美しさよりも、神と人にとって一番望ましいことを述べています。愛のある親切な人は、その容姿にかかわらず、美しく好ましく見えることでしょう。(箴言19:22)




ですから、私たちは、きれいな人の美しさに感銘を受けることは避けられないとしても、外見から過度に影響を受けないようにする必要があります。きれいな人にみとれて結婚配偶者ではない人に対して、性的欲望を育てないようにする必要があります。また、エホバと同じ見方をして、容姿に対して平衡のとれた見方をする必要があります。

箴言16章・誇りと傲慢さは崩壊に先立つ

 箴言には、「誇りは崩壊に先立つ」と述べられています。 (箴言16:18)また、「ごう慢さそのものがその人を低くする」とも述べられています。(箴言29:23)聖書の中には、エホバ神に逆らってごう慢さや誇りを示した人が、その後崩壊した例が少なからず述べられています。


 聖書中に見られるそうした例を見てみたいと思います。ペルシャのアガグ人ハマンやアッシリアの王セナケリブとその高官ラブシャケをとりあげます。


 ユダがバビロンに流刑に処せられていたペルシャの王アハシュエロス王の時代、王はアガグ人ハマンを高めて、重用していました。


 アガグとは、預言者バラムの時代にひとつの王国をなしていました。(民数記24:7)サウル王が打ち倒したアマレク人の王がアガグと述べられています。このアガグは個人名ではなく、アマレク人の王の称号であった可能性もあります。(サムエル第一15:8)アマレク人は、神を恐れなかったので、神はアマレク人を絶滅するようにと言われていました。(申命記25:19)


アマレク人はユダヤ人に敵対していました。それでハマンは、ユダヤ人の絶滅を図りました。ハマンは王をしばらくの間自分の意のままにしてユダヤ人が滅ぼされる段取りをしました。(エステル3:11,12)


そして、ハマンは、自分の富の栄華について、王が自分を大いなるものとして、僕たちの上に高めてくれたことなどを友人たちと妻に誇りました。さらに、ハマンは王妃エステルが王と共に自分だけを招待したと言って誇りました。(エステル5:11,12)


 その次の日、ハマンは崩壊を経験しました。ユダヤ人のモルデカイが王に対する忠節な行為があったので、王はハマンを用いてモルデカイを大いに高めました。(エステル6:10-12)そして、王に忠節な王妃エステルとモルデカイがユダヤ人であることが明らかにされ、ユダヤ人絶滅の企ては覆されました。



 ハマンは、王に忠節なユダヤ人の絶滅を図った者として、ハマンがモルデカイをかけようとして準備した杭にかけられることになりました。(エステル7:10)



ハマンは自分の富と権力を誇って崩壊を経験し殺されました



 また、アッシリアの高官ラブシャケは、ヒゼキヤ王の時代に、エルサレムに攻めて来て、アッシリアの軍事力を誇りました。(イザヤ36:1,2;37:23)そして、アッシリアの王がエホバを含めて諸国民の神より強いと述べました。(イザヤ36:18-20;37:11-13)その結果、エホバ神はみ使いを遣わしてアッシリアの軍隊十八万五千人を一晩のうちに打ち殺しました。(イザヤ37:36)



アッシリアの王セナケリブはエホバを侮ったので御使いによってその軍勢が絶滅させられてしまいました―エホバを侮って誇ることのないようにしましょう



 エホバは、そのアッシリアの崩壊の証人を残しておきたかったのでしょう。アッシリアの王セナケリブは、殺されませんでした。セナケリブ王は、立ってニネベに逃げました。セナケリブは偶像の神ニスロクを崇拝していた時に、二人の息子たちに殺されてしまいました。(イザヤ37:37,38)アッシリアの王はエホバに逆らって軍事力を誇ったので、崩壊を経験しました。 


実際、聖書は、神は「高慢な者に敵対」すると述べられています。(ペテロ第一 5:5)それで、エホバは誇りと高慢、ごう慢を憎まれます。エホバは過去にご自分に敵対して誇り高ぶった者たちに何度も崩壊を経験させ卑しめられました。


 エホバ神は、謙遜な者に過分のご親切を示してくださいます。(ペテロ第一 5:5)また、神の僕は、いつも「役に立たない奴隷です」という態度を示すように聖書は勧めています。(ルカ17:9,10)



 私たちは、エホバの与えて下さった祝福を、エホバに感謝して、それが自分の能力のためだと考えて自分を誇ることのないようにしましょう。エホバを度外視して富や軍事力などを誇ることのないようにしましょう。  


エホバに逆らって自分に栄光を帰すのではなく、いつもエホバの力に依り頼む謙遜な態度を保ちましょう。(詩編138:6。箴言22:4。マタイ18:4)そうする時に、エホバ神の過分のご親切を経験することができます。 

箴言22章・災いを避けるために個人情報をできるだけ隠す

  聖書は危険が迫っていると考えるならば、身を隠すように勧めています。そうすることは、私たちの命を救います。さらに、箴言は未経験な者たちが災いを予見しても身を隠すことをしないので、報いを受けると述べています。(箴言22:3)過去の明敏な神の僕たちは身を隠しました。


 預言者エレミヤとバルクは身を隠したことがありました。なぜならその時のユダの王エホヤキムは大変不敬虔な王で、エレミヤの預言に敵対しました。そして、エホヤキム王は、エレミヤと一致した預言をしたウリヤを殺していました。(エレミヤ26:20-23)


  バルクがエレミヤの預言をすべての君たちの前で読み上げた時、君たちは、恐れを感じて、バルクに,「行って,身を隠しなさい。あなたも,エレミヤもです。だれ一人あなた方がどこにいるかを知ることがないように」と言いました。(エレミヤ36:19)




As the words of Jeremiah's scroll were read to King Jehoiakim of Judah, the king cut that part of the scroll and threw it into the fire in a brazier that warmed his palace (Jeremiah 36:21-36). (jeremiah6)
エレミヤはエホヤキム王から殺される危険があったので身を隠しました




 王は、エレミヤの預言を知ってエレミヤとバルクを捕えようとしました。しかしエレミヤとバルクは助言に答え応じて、身を隠していたので、見つからず無事でした。「エホバは彼らを隠しておかれた。」とあります。(エレミヤ36:26)


 それで、命の危険が迫っている時には、私たちがどこにいるのかをできるだけ他の人に知られないようにするのが賢明です。


 
 私たちは、大いなるバビロンに「地上でほふられたすべての者の血が見いだされた」という聖書の警告の言葉を知っています。(啓示18:24)その状況は身を隠すべき状況であると言えます。アメリカが軍事衛星を用いて攻撃をしている可能性があります。それで、私たちの本名や画像、住所などの個人情報をできるだけ隠すのが賢明です。



 CIA長官補佐クリストファー・サーティンスキーが、「フェイスブックこそ我々がネットを開発した目的であり、このシステムにより全世界の個人情報収集が可能となる。これでCIAの長年の夢がかなった」と言ったとされる情報がネットにありました。CIAは軍と密接に関係があります。



 アメリカ政府は、電子メール、写真、映像、文書などの個人情報を収集していることを認めています。 また、「PRISM(プリズム)」というアメリカ国家の情報収集作戦があります。フェイスブックのほか、グーグルやマイクロソフト、アップル、スカイプ、ユーチューブ、ヤフー、AOL、パルトークの九社が情報収集に応じているとのことです。



 CIAは軍と密接に関係があります。CIAだけでなく、NSAの組織も総力を挙げて全世界の個人情報を収集しているでしょう。それは軍事目的に用いられるでしょう。アメリカ政府は軍事衛星の使用にその個人情報を利用する可能性は高いでしょう。


 それで、私たちの画像は、可能な限りフェイスブック、ラインなどのSNSに公開しない方が賢明だと思います。また、Eメールに写真を添付するのも、危険でしょう。衛星からの地上画像は、私たちの手に持っている物まで見分けることができるほど精度が高いそうです。画像を公開すると、軍事衛星から個人を識別して攻撃の標的にされる可能性があると思います。





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フェイスブックの個人情報はアメリカ政府によって収集されているので軍事衛星の攻撃に利用される可能性があるでしょう




 ネットでは、アメリカも中国も電磁波武器を開発していることを認めています。電磁波は癌、認知症うつ病統合失調症、その他あらゆる病気の原因になると言われています。軍事衛星に諸政府が電磁波武器を連動させる可能性は排除できないでしょう。


 また、携帯、スマホは、軍事衛星からの攻撃に連動して使われる可能性があります。GPS機能は衛星とつながっていることが明らかなので、軍事衛星の標的になりやすいでしょう。少なくともGPS機能のついていないものにするか、もしくは、携帯、スマホを持たないようにする方が身の守りになるでしょう。



 また、核融合レーザーなどが用いられた場合、その結果は致命的なものになる可能性があります。核融合レーザーが実用化されているかどうかは分かりません。しかし、アメリカが開発していることは事実なので、この可能性を考えると、できるだけ個人情報をネットに公開しないようにして、未然に危険を防ぐことが賢明だと思います。



 アメリカに不利な機密情報を含んだテレビ番組を作成したジャーナリストは、誰かが侵入した形跡もないのにその番組が放映された日に家の中で奥さんと共に変死していたことが発見されました。また、同じようなことをした別のジャーナリストも、外傷がないのに変死をしました。それで、電磁波武器やレーザー武器がすでに実用化されている可能性があります。



 また、最近熱中症で一軒の家の中で、高齢者が三人も死亡した事件がありましたが、一度に三人死ぬことは普通はありえないでしょう。他の人が熱中症で具合が悪くなったを見たら、他の人は何らかの対策をとるでしょう。それで、普通は熱中症で死ぬのは、一番弱い高齢者だけでしょう。外国では、野外で労働者が熱中症で死んでいますが、屋内では少しは影ができたり対策がとれるはずです。


 それで、三人が一度に死んだことは、その家を標的にして軍事衛星によって強力な電磁波武器もしくはレーザー武器が使われた可能性があるのではないかと考えます。
 
 
 しかし、身を隠すと言っても、神のみ名に避難するのが賢明なことです。神のみ名に避難するとは、エホバのみ名を使って神に祈ることを意味します。(箴言18:4)偶像に頼るべきではありませんし、死者に頼るべきでもありません。神のみ名を用いて神に祈り、神の方法で身を隠しましょう。そうする時に、エホバ神が私たちに保護を差し伸べて下さるでしょう。



 また、万が一プラズマ兵器で、命を奪われることがあるとしても、私たちにエホバ神は復活の希望を差し伸べてくださっています。聖書は義者と不義者の復活があると約束しています。(使徒24:15)それで、神にみ名に頼る人は、復活によってシェオールから救い出されるという希望があります。





CM - Own work Tetragrammaton by Francisco Goya: "The Name of God", YHWH in triangle, detail from fresco Adoration of the Name of God, 1772. (Tetragrammaton4)
偶像ではなく神のみ名エホバに避難しましょう−神のみ名を用いて祈り神に保護を求めて祈りに調和して身を隠しましょう

詩編115編・偶像や死者に祈っても何もしてくれない

  日本ではとりわけお盆の時期に人々は偶像や死んだ先祖に祈りをささげます。しかし、詩編115編には、偶像や死者がなにもできないことが説明されています。


  一方、生ける神エホバは、ご自分を賛美する民に増加をもたらしてくださいます。神の民の増加は、神が存在しておられること、その方が地上の世界で生きて活動しておられることを証明しています。


 諸国民の偶像は、銀や金でできており、「地の人の手の業」です。偶像は、「口はあっても、話すことはでき(ません。)」 「目はあっても、見ることはでき(ません。)」「耳はあっても、聞くことはでき(ません。)」「鼻はあっても、かぐことはでき(ません。)」(詩編115:4-6)




buddhist statue by mathias-erhart (buddhiststatue4)
偶像は無生物なので口も目も耳も鼻も使えませんし手足で歩くこともできません−偶像に依り頼んでも無益です




 「手を持ってはいても、触ることはできません。」「足を持ってはいても、歩くことはできません。」「のどを使って声を出すわけでもありません。」「すべて偶像に依り頼んでいる者たちは」この偶像とまさしく「同じようになります。」(詩編115:7,8)



 つまり、偶像に頼る人たちは、偶像と同じように何もできません。偶像に助けを呼び求めても、偶像は何もしてくれないからです。


 大患難が生じる時、偶像崇拝者たちは、自分たちの救いを偶像に祈願するかもしれません。しかし、偶像は、何もできないので、それらの偶像崇拝者たちは無為に命を失ってしまうだけでしょう。


 また、詩編115編には、死者がヤハを賛美しないことが述べられています。ですから、死者は、偶像と同じで何もすることができません。(詩編115:17)死者は存在していないので、死者に頼っても、無為な事です。(創世記3:19。詩編104:29)




katorisi The altar of the Japanese Buddhism-style funeral,saidan,japan (deceasedperson1)
死んだ人は存在しなくなっているのでやはり生きている人のために何もできません



 しかし、詩編115編14節は、エホバはあなた方に「増加をもたらされる」と述べられています。そして、聖書によると、大患難の後には、数の数えきれない国際的な大群衆の神の奉仕者が存在することが予告されています。(啓示7:9,10,15)ですから、大患難に至る聖書の預言の解明がなされる時、人々が聖書の預言の成就を見て、神の民は少しずつ増加していくことが予想できます。

 
とりわけ、神の民の増加は、大患難の前に大きなものになるでしょう。なぜなら、それで、聖書は、大患難の時、人々がこうもりのいる洞窟に偶像を投げ捨てることが予告されています。(イザヤ2:18-20)


 

 当然、大患難の前に、人々は北の王と南の王の世界的な戦闘が起こりそうなのを見て、聖書の神の預言の言葉が成就していることに気づくでしょう。また、その戦争は聖書の神エホバの怒りの表れでもあることを知り、神に怖れを抱くでしょう。


 そして、それらの人々は現実に、洞窟や、土の塵の中の穴に避難するかもしれません。その時、人々は岩の洞くつのこうもりに向かって偶像を捨てるでしょう。





U.S. Fish and Wildlife Service Headquarters(cavebat5)
聖書は人々が偶像の無益さを悟りこうもりの洞くつに偶像を捨てる時が来ることを予告しています




 しかし、人々が避難するこの「岩」は比ゆ的な意味の「岩」かもしれません。詩編の中で、エホバ神は、「岩」と呼ばれており、人はエホバ神のもとに避難できます。(詩編18:2)それで、大患難の前に非常に大勢の人々が保護を求めてエホバ神の組織に頼ってくるのでしょう。その時、当然、その避難所に入るための条件として、持っている偶像を捨て去ることが求められるでしょう。





Anirudh Koul(greatcrowd36)
聖書は大患難を生き残るエホバ神の崇拝者が数えきれない程多くなることを予告しています−神はご自分の民を増加させられます

 

 さらに、イエスは、大患難について言及された時、「その日が短くされないとすれば、肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのゆえに、その日は短くされるのです。」と言われました。(マタイ24:22)



 大患難がどんな方法で短くなるのかは、今は分かりませんが、大患難は選ばれた者たちの努力のゆえに短くされます。それゆえに、国際的な大群衆が生き残る道が開かれます。選ばれた者たちの努力のゆえに人類が存続する道が開かれることになるでしょう。


 ですから、人々は神の民が大患難が起きないように、人々が大患難を生き残るように努力を払っているのを認識して、エホバに感謝してエホバを崇拝することになるのでしょう。(啓示7:9,10,15)



 ですから、偶像や死者は大患難を生き残るのに少しも助けになりません。しかし、エホバ神は大患難の際に、人々を助けて下さいます。ですから、これからも、聖書の預言の研究に励み、より一層聖書全体と調和した聖書預言の解釈になるように努力していきたいと思います。


 さらに、大患難を生き残る実際的な手段を講じることができるように準備をしたいと思います。エホバに助けを祈り求めて努力を払っていきましょう。

裸は恥ずかしいことですか

  時々、世界の各地で裸になって当局に抗議をする人たちがいます。また、写真集などに、自分の裸の写真を公開する男女もいます。裸になるのは恥ずかしいことなのでしょうか。


 創世記の記述によると、アダムとエバは当初エデンの園で裸で生活していました。ところが、「ふたりは裸であったが少しも恥ずかしいと思わなかった」と記録されています。(創世記2:25)創造された当初、裸であることは、自然なことであり、恥ずかしさや不自然さを引き起こすものではなかったようです。


 それでは、私たちは裸になるのが自然なことなのでしょうか。聖書から考えてみましょう。

 アダムはエバは、善悪の知識の木の実を食べた後、自分たちが「裸であることに気づくようになりました。」(創世記3:7)そして、彼らはそれを不自然なことだと感じました。確かに、動物の多くは、毛皮、羽、うろこという形で体を覆っているものがほとんどです。


 それで、彼らは「いちじくの葉をつづり合わせて自分たちのために腰覆いを作った」と聖書は記録しています。(創世記3:7)彼らはとりわけ下半身を隠すのが自然だと感じました。






Adam and Eve, from Genesis. Catacombs of Saints Marcellinus and Peter  (adamandeve14)
罪を犯して後アダムとエバはとりわけ下半身を隠したいと感じるようになりました



 腰覆いだったので、エバはおそらく乳房を隠してはいなかったのでしょう。しかし、アダムもエバも、局部を隠す必要を感じました。


 それから、エホバ神は、「あなたはどこにいるのか。」と言って、アダムに繰り返し呼びかけられました。アダムはエデンの園の木々の間に隠れましたが、ついに、アダムは、「自分が裸なので怖くなり、そのために身を隠したのです。」と答えました。(創世記3:10)それで、エホバは、「あなたが裸であると、だれがあなたに告げたのか」と言われました。(創世記3:11)


 このエホバの言葉は、創造当初、裸であることは、意識する必要のないことであったことを示しています。しかし、ふたりが罪を犯して状況が変わりました。


 エホバ神は、裸であることを不自然だと感じる二人の感じ方を否定されませんでした。「エホバ神は、アダムとその妻のために皮の長い衣を作って、ふたりにお着せになった」と聖書は記録しています。(創世記3:21)



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エホバはアダムとエバに長い衣を作って着せました−それ以来衣類を着るのが自然なことになりました




 エホバ神が人間のために作られたのは、単に腰を覆うだけのものではありませんでした。「長い衣」ですから、エバの胸も含めて、ふたりの体全体を覆うものだったと考えられます。ですから、エホバ神は、体を覆う衣服がふさわしいという基準を示されました。

 
 さらに、聖書は罪が入って後、裸と望ましくないものを結びつけています。例えば聖書は、裸と恥を結びつけています。(啓示3:18)また、裸は不名誉なことだとされています。(ナホム3:5)また、女性の裸を見る行為は彼女を「安っぽい者として扱う」行為だと述べています。(エレミヤ哀歌1:8)





Joe Mabel (nakedbody)
聖書は裸と恥や不名誉と結びつけています



 このことからも、人間にとって自然なことが変わってしまったことが分かります。これが、今日におけるエホバ神の人間の裸に対する見方です。


 ですから、ポルノで、自分の裸を見せることは、自分の品位を下げていることになります。ポルノのために裸になることは、自らの恥を露わにする行為であり、恥ずかしく不名誉なことです。また、ポルノを見ることはその女性を真に愛している行為ではありませんし、敬意をもって扱っていることにもなりません。


 ですから、当局に対する抗議のために裸になるのは、賢明でも効果的な方法でもないでしょう。もし、当局に自分の訴えを聞いてもらいたいなら、きちんと衣服を着て訴える方が、敬意をもって訴えを聞き届けてもらえるでしょう。


 今日暑い時だけでなく寒い時があります。ですから、地上の楽園が実現しても、人々が裸になって生活する状態に戻ることは難しくなりました。そして、楽園になって衣を身に着ける習慣から元に戻って裸で生活することを示唆するような聖書の預言もないと思います。


そして、今日、いろいろな色や形の衣服を着ることは人間にとって楽しみともなっています。この習慣は永遠に変わらないでしょう。



Samarqand_4384rt by Stefan Munder(clothe4)
衣類を着ることは自然な事であり人にとって楽しみともなっています



Hanbok for man and female by KOREA.NET - Official page of the Republic of Korea (clothe6)
裸が恥ずかしく衣類を身に着けるのが当然という習慣は永遠に変わらないでしょう



 でも、今日、清潔さを保つために公衆浴場に入る必要のある人もいるでしょう。しかし、多くの人はそういう場合でも、局部を隠そうとします。ですから、そういう場合は、他の人の裸をあまりジロジロ見ない方が、他の人に対する思いやりでしょう。


 配偶者と性関係を持つために必要な時以外には、裸にならない方が賢明です。裸になることは今日、恥ずかしいことです。恥ずかしいのが自然なことです。