イザヤ44章・偶像崇拝の愚かさ

「彼はその半分を火の中で実際に燃やす。その半分で自分の食べる肉をよく焼いて満ち足りる。また,彼は自分の身を暖めて言う,『ははあ,暖まった。火明かりを見た』と。 しかし,彼はその残りを実際に神に作り,自分のための彫刻像とする。彼はそれに平伏し,身をかがめ,それに向かって祈って言う,『わたしを救い出してください。あなたはわたしの神だからです』と。」(イザヤ44:16,17)


 多くの神殿、教会、お寺、神社に多くの偶像が祭られ、神として崇拝を受けています。木や石や金属で造られた偶像があります。人はこうした偶像を神として形造って崇拝します。聖書の中にはそうした偶像崇拝が愚かであることを示す記述があります。


 それは冒頭のイザヤ44章です。人は一本の木の半分をたきぎとして燃やし肉を焼いて食べるかもしれませんし、その火で温まるかもしれません。しかし、その木の残りを神に作り、それに平伏します。


 その人は、自分の作った神と同じ木が、ただの乾ききった材木であったことを忘れています。そのたきぎとなってしまった木は、自らをたきぎとして燃やされることから救い出せなかったのですから、自らを崇拝する人を苦難から救い出せないことは明らかです。
神として崇拝される材木は、たきぎと何ら変わるところがありません。何もすることができないただの無生の物質です。自分がたきぎにして燃やしてしまった木材を神として崇拝するのは、本当に愚かなことです。偶像を作ってそれに依り頼んでいる人たちは偶像が何もできないことに対して理解や洞察力がないと聖書は述べています。(イザヤ44:18)


 詩篇115編も諸国民の崇拝する偶像が命がなく、何もできないことを述べています。そこには、諸国民の崇拝する偶像は、「銀や金であり、地の人の手の業」であることが述べられています。その偶像は、口で話すこともできなければ、目で見ることもできず、耳で聞くこともできません。鼻でかぐことも、手で触ることも、足で歩くことも、のどで声を出すこともできません。(詩篇115:4〜8)


 偶像は命がないので、何もできません。偶像はそれを崇拝する人に何の救いも差し伸べることができません。偶像を崇拝するのは、愚かであり無駄なことです。聖書は偶像は滅びうせる時が来て、偶像を崇拝する人は失望することを予告しています。(エレミヤ10:14,15)


 人は生ける神を見い出して、その方を崇拝するべきです。(エレミヤ10:10)