自然界を通して認められる創造者の人間に対する善意

 自然界はどのようにして存在するようになったのでしょうか。進化によってでしょうか。神によって創造されたのでしょうか。このことは、私たちの周囲に存在している生物や事物を観察すると自ずから明らかです。私たちは、周囲の自然界を通して創造者の人間に対する善意を認めることができます。


 例えば、私たちの健康を支える食物に野菜だけでなく、多くの種類の果物があります。身近な物にバナナ、イチゴ、ブドウ、リンゴ、パイナップル、キーウィ、ミカンなどがあります。



 それらの果物はそれぞれ色と味が違っていて私たちの食欲をそそります。バナナは黄色でソフトな食感があります。イチゴは赤色をしています。ブドウは紫色。リンゴは表面は赤か黄色か緑色です。パイナップルは黄色。少し甘ずっぱいです。キーウィは緑色か黄色をしています。みかんはオレンジ色です。 


それらの果物はどのようにしてそのようなさまざまな色に進化したのでしょうか。それらの果物がそれぞれ異なる私たちの食欲をそそる色をしているのはどうしてでしょうか。どうしてそれらの果物は、人間が食べておいしいと感じる味と香りをしているのでしょうか。




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果物がわたしたちがおいしそうな色で食べておいしい味をしているのはどうしてですか
―果物は進化したのですかそれとも神によってそのように創造されたのですか




 それらの果物は、自分たちで人間を喜ばせるために進化してさまざまな色を身に着けたのでしょうか。そういうことはあり得ないでしょう。果物が黄色や赤や紫や黄色や緑色などさまざまな色に変化して進化するどのような必然性があったでしょうか。果物は理性がないので、自分で変化することはできないでしょう。


 明らかにさまざまな果物には、人間男女に食事をする際に楽しませたいという創造者の意図が感じられます。果物の味はひとつではありません。神は果物がさまざまな味とさまざまな色であるように取り計らわれて、私たちが食べることに楽しみを得られるようにされました。これは創造者のサービスだと思います。


 聖書の中には、「ご自分は善いことを行なって,あなた方に天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなた方の心を存分に満たされたのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません」と述べられています。(使徒14:17)ですから、神は食物と楽しさとをもって人の心を存分に満たされました。食事を通して人間の心が楽しいようにするという神の意図が果物を通して認められます。 


 さらに、身近な例として人間のペットになる動物たちがいます。大変身近なペットはネコや犬でしょう。インコやオウムなどの鳥を飼う人もいるかもしれません。 


 私たちはネコを見て、かわいいと感じるかもしれませんし、かっこいいと感じるかもしれません。また、わたしたちはネコのさまざまな仕草を見てほほえましく思います。私たちはネコを抱きしめて楽しい思いをするでしょう。




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 どうして猫はかわいいのでしょうか。猫は人間がかわいいと感じるように進化するどのような必然性があったのでしょうか。進化にかわいさは必要でしょうか。かわいさは何も生活に必要なものではないでしょう。しかし、私たちはネコを見て、心がなごむ思いがします。


 明らかに、ネコは私たち人間の心をなごむようにさせるという神の意図が感じられます。猫はわたしたちの生活に面白味を増し加えます。進化は生活の面白味を考慮しないでしょう。しかし、エホバ神は考慮してくださったのです。


 また、私たちの心がなごむことがあるのは、イヌも同じです。イヌは人間の主人に普通忠節です。子供のいない夫婦にとって犬は子供の代わりの家族のようになって子供のいない寂しさを埋めることもあります。多くの犬は番犬として役立ちます。


 犬などのペットと一緒にいると人間の健康が増進することが知られています。ペットの存在は人間の感情的、身体的健康にプラスになります。どうして犬は人間の生活にそのように楽しさを増し加えたり、役立ったりするのでしょうか


 聖書は、最初の人間アダムは神の子であったと述べています。(ルカ3:38)神にとって人間は子供のような存在でした。動物はそうではありません。聖書は神は地球を人間が住むために造られたと述べています。(イザヤ45:18)ですから、創造者は人間のことを考えてイヌも創造されました。神は人間に対する忠節という人間の生活に役立つ特質を犬に与えました。


 他の動物に関してもそうしたことは言えます。例えば、オウムやインコの羽の美しい色は人間を楽しませます。進化は、オウムやインコが美しい色を持つようにはさせないでしょう。


 また、トラやライオン、ヒョウやチータなどの動物が存在することは、私たちの生活をより一層興味深くします。そうした動物が存在しないならば、私たちの生活の楽しみは減るでしょう。


 トラやライオン、ヒョウやチータなどが存在していることを楽しむのは何よりも人間でしょう。それで、それらの猛獣の存在を通して、人間の生活を興味深い楽しいものにしようとする創造者の意図が感じられます。




Arno Meintjes

TNS Sofres
人間は野獣の存在を楽しむことができるでしょう



 人間の親は、子供が誕生する時、さまざまな準備をするでしょう。ベビーベット、衣類、哺乳瓶、ミルク、おもちゃなどさまざまな物を赤ん坊の誕生に備えて準備をするでしょう。エホバ神も人間のために地球に同じような準備をしてくださったのです。




人間の親が子供のためにさまざまな物を準備するように・・・


ForestWander


エホバ神は地球上に人間が楽しめるものを数多く準備してくださったのです




 これらは自然界を通して表されている神の善意と愛のほんの一例です。自然界は人間を中心として存在しています。自然界は、人間をある場合は楽しませ、ある場合は益し、ある場合は人間の生活をさらに興味深くしています。単なる生存に必須のもの以上のものがあります。


 そのように、自然界が人間の生活を益しより一層幸福なものにするものとなっていることは、盲目的な進化によっては説明できません。


 こうしたことは盲目的な進化が決して起こらなかったこと、自然界は神によって人間のために創造されていることを証明してします。私たちは自然界に人間を益する物をたくさん創造してくださった創造者に感謝しましょう。その感謝を聖書を読むことによって、エホバ神に感謝を捧げることによつて表しましょう。

神の支配権の正当性―人間は神から学び続ける立場にある

 万物の創造者エホバ神は、支配者として当然の立場にあり、人間は、神によって支配されるのが当然の立場にあります。



 人間が神によって支配されるのが当然の立場にある理由のひとつは、赤ん坊としてこの世に誕生する時には、人間は自分自身について、この世界について何も知識を持っていないからです。



 そして、人間は誕生後、両親や他の人との関わりを通して学んでいきます。また、本を読んだり、学校に通ったり、また自分でこの宇宙や地球を探求して自分や世界についての知識を増し加えていきます。


 神は人間に学習能力を与えて下さいました。人間は学び続けることができるように創造されました。人間がそのように知識を増し加えていけるのはどうしてでしょうか。人間はいわば創造者の本から学ぶことができるのです。創造者の本とは、二つあります。ひとつは神が創造された自然界です。


 自然界には人間以上の知性が反映しています。自然界に見られる知識と情報はどこからくるのでしょうか。それは創造者なる神です。



 人間は、自然界を研究することによって、エホバ神から間接的に学んでいるのです。聖書には、人間が自然界の鳥や魚や家畜などの生物を研究して、いろんな知識と知恵を学ぶことができることが書かれています。(ヨブ12:7,8)バイオミミクリーもしくはバイオミメティクス という学問があります。自然界の生物体に見られる工夫から学ぶという学問分野です。



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人間は自然界を通して神の知識と知恵の多くを学ぶことができます



 なぜ、人間は自然界の動物から学ぶことができるのでしょうか。人間は、動物を通して、それらの動物を創造された神から学んでいるのです。「理性のない動物」自体は、人間を教えることはできません。(ペテロ第二2:12)創造者だけが知識と知恵の絶対的な源です。(箴言2:6,7)ですから、神は、いつも教訓を与える教師の立場にあります。また、人間は、いつも神から学ぶ生徒の立場にあります。



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いつも創造者は教師で人間は生徒という立場にあります




 そして、私たち人間は決して教師である神を超えることはできません。自然界に反映されている神の知恵は深くて、私たちが神から学べることはその片鱗「ささやき事」だけです。(ヨブ26:14。ローマ11:33)エホバ神は、人間をはるかに超えた知性を持っておられます。天が地より高いように、神の知識と考えは、人間よりも勝っています。(イザヤ55:9)





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エホバ神のお考えは天が地より高いように人間よりも高いのです



 人類がどんな宗教を持っていたとしても、神を信じていなくても、知性を持ち成長していけるのは、もとはといえば、神の創造の本を通して創造者から学ぶことができるからです。ですから、神を信じていない人たちも、創造者から益を受けています。


 そして、万物を創造する知識と知恵と力をもともとエホバ神は持っておられました。そして、エホバ神は人間を創造された最初から今に至るまで観察して来られたので、人間とその歴史について誰よりもご存知です。このことから、創造者だけが支配者として永遠にふさわしいと言えます。(詩編90:2)


 そして、別の創造者の本は聖書です。私たちは、聖書を通して神が創造された世界についての神の説明と、神が持たれる基準について聞くことができます。



聖書を通して神のお考えから学ぶことができます

 
 人間は、永遠に神から学び続ける立場にあります。聖書は、「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。」と述べています。(ヨハネ17:3)


 この言葉の意味は、人間が創造者であるエホバ神とその協力者であるキリストについて学び続けることによって、永遠の命を得られるということです。ですから、人間は、神とキリストから、またその創造の本と聖書から永遠に学び続ける立場にあります。 


 また、神は変わらない方です。エホバ神の基準は不動です。エホバは最高の道徳基準を持っておられ、人間の様に堕落することのない神聖な方です。(レビ11:44)エホバ神は愛の神として変わることがありません。(ヨハネ第一4:8。イザヤ41:4;43:13)エホバは最初から最後まで、「同じ者」です。(イザヤ41:4)ですから、エホバ神は支配者として唯一ふさわしい方です。


 このことは、神の支配権が当然のものであり、人間にとっても最善のものであることを示しています。エホバ神の支配権が永遠に続き、人間は神に永遠に神から学び続けるのが当然の立場にあります。エホバ神の支配権を尊重しましょう。




エホバ神は永遠に変わらない方であり人間は永遠に神から学び続ける立場にあります




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千年統治の後神がサタンを解放して人類を試すのは不当ではありませんか


 ある人は、神の王国の千年統治の後、エホバ神がサタンを無活動状態から解放して人類を試すことを不当に感じます。サタンがいたから、アダムとエバは神に背いたのではないだろうか、神の王国の千年統治の後、完全な姿で復活した人類の世界になぜサタンを解き放す必要があるのだろうかと考えます。その点について考えてみましょう。


 まず、神が完全になった人類がサタンの試みに遭うことを許されることは、神がご自分の是認を求める人類ひとりひとりに、たとえある程度の妨害があってもご自分の支配権を認めることを求められることを示しています。神は、最初にエデンの園に善悪の知識の木の実を置いて、ご自分の支配権を認めることを求められました。(創世記2:17)


 ところが、サタンは、蛇を通してエバに善悪の知識の木の実を食べても死なない、人間は神を無視して自らを支配できるという偽りを言いました。(創世記3:4,5)エバはサタンの述べた偽りに騙されました。(テモテ第一2:14)また、アダムはエバと行動を共にしたいと考えたようです。


 しかし、もし、アダムとエバが神がしてくださったことに対する感謝があり、神の支配権を尊重する気持ちがあれば、神に従うことは何ら難しいことではありませんでした。(創世記2:16)なぜならエデンの園には、おそらく何百種類もの食用となる果樹や野菜があったからです。 



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エデンの園には食べるものは豊富にあったので一本の木の実を食べることを差し控えることは難しいことではありませんでした


善悪の知識の木の実を食べることを差し控えることは、アダムとエバに何らの苦しみも重荷ももたらしませんでした。(ヨハネ第一5:3)それは本当に負担の軽いご要求でした。



 アダムとエバはサタンの影響があっても、神の支配権に固くつくことは決して難しいことではなかったのです。



 それで、千年統治の後、人類には同様の試みが臨むと考えられます。例え、サタンの影響があっても、その試みは、神の支配権を尊重する気持ちがあれば難しいことではないでしょう。 


このような仕方で、人類に試みが臨みます。まず、イエスが悪魔を千年間無活動状態にすることが予告されています。(啓示20:2)そして、キリストとその仲間が千年間、支配します。(啓示20:6)そして千年統治が終わると、サタンは解放されます。サタンは、諸国民を惑わし戦争をさせます。惑わされる者は海の砂のように数多くなることが予告されています。(啓示20:7,8)


その時、惑わされた諸国民は、「愛されている都市」すなわち神の王国の代表者たちに対して戦争をしかけるようです。 彼らは「聖なる者たちの宿営と愛されている都市」を取り囲みます。(啓示20:9)サタンに惑わされる人々が「諸国民」と表現されているということは、神の王国のもとに一致するのではなく、千年統治が始まる前に人間の諸政府が行使していたような地域の支配権を主張することを示しているかもしれませ。 


その時、アダムの子孫は、人類の歴史を知っています。神の支配から離れた人類の過去の支配がいかに悲惨だったかを知っているのです。そして、聖書の預言が成就したこと、神の王国とキリストの贖いにより,過去に死んだアダムの子孫が復活し、人類が向上し完全で死なない状態になり、平和な世界が実現したことも知っています。


神の王国のもとでは聖書の研究が行われたはずです。人々は、聖書と神について知っているはずです。人類の歴史を知っている筈です。それがいかに悲惨なものであったか、神の王国がいかに人類に平和と健康をもたらしたかを知っています。




千年統治の終わりに人々は聖書と神と人間の歴史について熟知しています
その時の試みはアダムとエバよりも容易になるはずです


ですから、神の支配権を尊重することは、それらの人々にとってアダムとエバよりももっと容易になっているはずです。その時の人類は、アダムとエバよりももっと神の支配権に感謝を示すべき理由を持っています。


ですから、千年統治の後、サタンが解き放されることによって、神の支配権に対する従順が再び試みられますが、神の支配権に対する感謝と認識があれば、その試みは人類にとって決して難しい試みではないでしょう。


 ところが、多くの人々は、サタンに惑わされ再び神の支配権に反逆することを預言は示しています。サタンに惑わされた人々は、言い訳ができるでしょうか。戦争をしかけるということは、それら神の王国の地上の代表者たちの命を奪おうとするのでしょう。そうした人々に神が永遠の命を与える責務はないでしょう。(ヨハネ第一3:15)


 それで、エホバ神はそれらの人類の上に天から火を降らせて、反逆した人々を滅ぼしてしまわれます。(啓示20:9)そして、その時、サタンも完全に滅ぼされます。(啓示20:10)


 サタンは、神に対して反抗的な何らかの考えを人々にふきこむと考えられますが、それは決して難しくない試みでしょう。聖書と人類の過去の歴史を理性的に学べば、アダムとエバが神に従うのが実際は容易であったように、それ以上に、その時も神に従うことは難しくないでしょう。


 当然、その時、神の支配権に感謝してそれを尊重する人々も非常に大勢いると考えられます。それらの人々は、神の王国の代表者たちに対する攻撃には加わらないでしょう。むしろ、そうした人々の防御に回るでしょう。神の支配権を確固として尊重する人々には、神は永遠の命を与えるでしょう。(ヨハネ第一2:17) 


それで、聖書に載せられているひとつの重要なテーマは神の支配権です。エホバ神は、万物を創造された方です。自然界には神の知識と知恵と愛が反映されています。(使徒14:17)聖書にも神の知識と知恵が反映されています。(箴言2:6)私たちは神の支配権が知的な被造物にとって最善であるという確信を強め、神の支配権を擁護していきましょう。



Douglas Scortegagna
私たちはすべてのものの創造者の支配権を支持しましょう

箴言15章・温和な答えは激しい怒りを遠ざけ痛みを生じさせる言葉は怒りを引き起こす

 家庭生活でも、職場においても、温和な話し方は他の人の怒りを抑えて事態を静めることがあります。一方、他の人に痛みを与える言葉は、人を怒らせ、人間関係を難しくし、事態を難しくします。聖書は温和な答えが激しい怒りを遠ざけた例も、痛みを生じさせる言葉が怒りを引き起こした例も述べています。(箴言15:1)聖書中のそうした例を調べて教訓を学びましょう。


 例えば、ダビデが激しい怒りを感じた時、他の人が温和な話し方によってダビデの怒りを静めたことがありました。


 ダビデがサウルから追われて荒野にいた時、ダビデの一行は、ナバルの羊を守るように取り計らいました。ナバルは羊三千頭とヤギ一千頭を持っていました。(サムエル第一25:2)ダビデの一行は、いわば野獣や諸国民の略奪隊からの警備の働きをしました。(サムエル第一25:16,21)


 それで、ダビデはナバルに幾らかの食物をナバルに求めました。ところが、ナバルはダビデの親切を評価するどころか、ダビデを主人から逃げている僕と言って馬鹿にしました。(サムエル第一25:10)ダビデは、怒りを覚えて、ナバルの家の者を皆殺しにしようとでかけていきました。(サムエル第一25:12,13)


 ナバルの妻アビガイルは、大変美しく、その上思慮深い人でした。(サムエル第一25:3)アビガイルは、ダビデがサムエルによって次のイスラエルの王として油そそがれていることを聞いていたようです。そして、ダビデがサウルから追われていることを知っていました。それでも、ダビデがエホバ神から守られているとアビガイルは判断していたようです。(サムエル第一25:29)


 ナバルの僕の一人が起こっていることをアビガイルに告げました。(サムエル第一25:14-16)それで、アビガイルは急いでダビデの一行のために食べ物の贈り物を準備し、ダビデに会うためにでかけました。(サムエル第一25:18)そして、ダビデと会うと自分の訴えに耳を傾けてくれるようにダビデに懇願します。(サムエル第一25:24)


 そして、自分の夫を「どうしようもない男」と述べ、ダビデはエホバによってから守られているので、不要な血の罪を犯さないように懇願しました。(サムエル第一25:26,29)アビガイルの洞察力は優れていました。ダビデが将来イスラエルの指導者となり、エホバがダビデのために王権を永続するものにするという確信を言い表しました。(サムエル第一25:25,28,30,31)



Prudent Abigail by Juan Antonio Escalante
アビガイルはダビデが流血の罪を犯さないように謙遜に懇願しました



 アビガイルの贈り物と、彼女の温和で謙遜な言い方は、ダビデの怒りを静めました。そして、ダビデはナバルの家の者を襲うことなく帰っていきました。(サムエル第一25:32-35)アビガイルの温和な言葉はダビデを不要な流血の罪から守りました。また、ナバルとナバルの家の男たちとアビガイルの命そのものも守る結果になりました。


 ですから、言葉は温和であれば、流血の惨事が起きないように静める場合もあることが分かります。当然、温和な話し方は、家庭生活の平和に貢献するでしょう。

 

 私たちは、もっともな理由で他の人を怒らせてしまった時には、事態を静めるために、時には非常に不愉快な事態や言葉を謙遜に温和な仕方で受け止めるならば、それ以上事態が悪化しないように防げる場合があります。 


 ダニエルも、とても温和で巧みな言い方をしました。ダニエルは、ネブカドネザルが七つの時の間正気を失い牛のようになって草を食べるという預言を語らなければなりませんでした。



 その時、ダニエルは、「我が主よ,この夢はあなたを憎む者に,その解き明かしはあなたに敵対する者たちに当てはまりますように。」と言いました。(ダニエル4:19)また、もし、ネブカドネザルが良いことを行うならば、このことが成就する時を遅くすることができるでしょうと言いました。(ダニエル4:27)




ダニエルは預言の説明をする時できるだけ温和な形で話したのでネブカドネザルの怒りを買わずにすみました



 ダニエルの温和な言い方は、ネブカドネザルの怒りを遠ざけました。ネブカドネザルは、ダニエルが個人的にネブカドネザルに対して反感を持っていないことが分かりました。それでダニエルの温和な話し方は、ネブカドネザルがその預言のことでダニエルに敵対的な行動をとらないようにさせました。


 このように聖書は謙遜で温和な言葉が怒りを起こさないように予防する場合があることを述べています。


 一方、聖書はある人々に痛みを生じさせる預言を語って、怒りを生じさせた例も述べています。ヨセフの例を取り上げます。


 ヨセフは自分の見た夢について語りました。その夢は、ヨセフの両親と兄弟たちが将来ヨセフに対して敬意を払って服するようになることを示唆した夢でした。そのヨセフの見た夢について聞いたヨセフの兄弟たちは自分たちが卑しめられていると感じて怒りました。(創世記37:5-8)




 その預言的な夢は、ヨセフの父親ヤコブがヨセフを特に愛していたことも相まって、兄弟たちの感情を傷つけ兄弟たちを怒らせました。(創世記37:4)



 ヨセフは、どうすることができたでしょうか。兄弟たちが自分をねたんでいたことに気づいていたなら、兄弟たちには、その夢を語らないで、父親ヤコブと自分の母親だけに話しておけば良かったかもしれません。(創世記37:9-11)もしくは、ヨセフはダニエルのようにこの預言のようになることを自分は望んでいないと言っても良かったかも知れません。


 私たちは、謙遜さのない人々を卑しめる結果になるような預言を語るならばそれらの人々は感情を傷つけられて怒り立って預言を語る人を攻撃するかもしれないことをわきまえておく必要があります。


 でも、兄弟たちは預言に対して反応し、ヨセフをエジプトに送りました。そのことは、ヨセフが後になってエジプトで高められるきっかけになりました。ですから、ヨセフは兄弟たちを怒らせても、その預言について正直に話したことは、良かったのかも知れません。しかし、私たちはとりわけ温和な話し方をしたダニエルに見習うのが賢明でしょう。


 私たちは、これらのことを知ると、いつもできるだけ温和な話し方をして事態を静まらせる人でありたいと思います。温和な話し方は激しい怒りを遠ざけることがあります。神の裁きをはっきりと告げることは必要ですが、できるだけ痛みを生じさせない言い方をした方が賢明です。

一度限りの短い人生と神からの永遠の命―どちらがいいですか

 ある人は、死ぬ時人生を後悔しないように聖書を無視していろんなことに挑戦するよう勧めます。しかし、神が与えてくださる永遠の命と、一度限りの短い人生とどちらがいいでしょうか。


 神を無視していろんな生き方をするよう勧める人たちが差し伸べることができるのは、せいぜい良くて七十年か八十年の人生です。(詩編90:10)また、最近は八十代の半ばまで生きられる人も多くなりました。


 しかし、あなたはもし、八十年生きられるとしたら、長生きして良かったと考えますか。その寿命で、自分が成し遂げたかったことをすべて成し遂げられたと考えますか。たとえ、八十年生きても、私たちは十分だったと感じないのではないでしょうか。短かくはかない人生だったと感じるのではないでしょうか。


 私は、八十年生きたとしても、たとえ、百年以上生きたとしても決して満足できないと思います。そして、八十年という人生はあっという間です。若い時は、時の流れを幾らか長く感じます。しかし、年をとると時間の流れは速く感じられるようになります。それで、十年という期間はあっという間に過ぎます。聖書も私たちの七十年あるいは八十年の人生が、「速やかに過ぎ去る」、わたしたちは「飛び去る」と述べています。(詩編90:10)


 十年があっという間に過ぎてしまうのですから、三十年や四十年もあっという間に過ぎてしまうと思います。ですから、わたしたちの多くにとって自分の死までの残りの人生も大変短く感じられることでしょう。


 しかし、当時130歳まで生きてきた神の僕のヤコブでさえ、自分の人生を振り返って、「私の年の日数は、わずかであり、苦しみの多いものでございました。」と言いました。(創世記47:9)130歳まで、生きていたヤコブが、自分の人生は「わずか」だと感じたのであれば、私たちが死ぬ時、自分の人生について長いと感じるでしょうか。決して長いと感じないでしょう。





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私たちはどんなに長生きしても自分の人生は短かったと感じることでしょう


 若い時も短いです。聖書も若い時は短いと言っています。「若さも人生の盛りもむなしい」と述べています。(伝道の書11:10)若い時の美貌も体力も短期間で衰えてしまいます。「美しさもむなしいものとなることがある」と聖書は述べています。(箴言31:30)


 それで七十年あるいは八十年という人生は決して長くありません。あっという間に時は過ぎてしまい、最後には、年をとり衰えて死にます。



 人の人生について詠った詩歌があります。林芙美子という小説家による「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」というものです。神のご意志を無視した人生はとりわけそうなります。この林芙美子という方も47歳の若さで亡くなっています。



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 聖書も私たちの人生を花や草に例えています。花や草は、朝盛んに萌え出ていても切り取られると夕方にはしなびてしまいます。詩編90編6節には、「人の子」を「移り変わる青草」に例えて、「朝に花を咲かせ,そして必ず移り変わります。夕べには枯れて,必ず干からびます。」と述べています。そして、私たちは遅かれ早かれ人生の終わりに直面します。


 聖書は、私たち人間の人生をはかない呼気にも例えています。(詩編62:9)人間の口から出された呼気は大変短い時間だけ存在します。そして、それは、大気の空気と同化し、存在していたのかどうかも分かりません。大変、はかないものです。神を無視した人生はとりわけ何と価値の軽いものでしょう。


 聖書を無視して自分の望む生き方をするように勧める人は、そのような短い人生しか差し伸べることができません。そして、自分の好きなように不道徳にふけるように勧める人が差し伸べることができる人生は、さらにもっと短いです。


エイズで、二十代や三十代で死ぬ人も多くいます。そして、最後には性病で苦しみうめきながら、死んでいくのです。(箴言5:8,11)数分の快楽のために、何と高い代償でしょう。自分の貴重な人生を短くしてしまうのです。



 また、戦場で他の人を殺す人の多くも、やはりそれくらいの長さの寿命しか生きられません。そして、それで人生終わりです。その後は何の保証もありません。そして、聖書を無視した人生を送るように勧める人の人生は、多くの場合、苦しみや悩みに満ちています。


 人が自分の命を短く感じるのは、人間が永遠の概念を持っているからです。それで、人間はいくら生きても、まだ生きていたいと感じるのです。人間の持つ永遠の概念は神から与えられました。(伝道の書3:11)人間はもともといつまでも生き続けるように創造されているからです。



 私は個人的にこの短い人生で終わりたくありません。私は長く続く命が欲しいです。アフリカの多くの人々は、私くらいの年で、そして、もっと早くに死んでいます。アフリカでは、性の不道徳によるエイズのためもあり、平均寿命が従来四十代か五十代でした。しかし、先進国でも五十代くらいで癌で亡くなる人も多くなっています。



 そして、自分の人生を振り返ると、決して長かったとは思いません。私はたった一度限りで終わる人生なんていやです。


 聖書は永遠の命の希望を差し伸べてくれています。(ヨハネ6:47)神に頼って初めて永遠の命の希望が持てます。神が私たちに永遠の命を差し伸べて下さるのは、神が私たちを愛してくださって、私たちの人生を高く評価してくださるからです。



 私は、神に愛され永遠に生き続けて意義あることを成し遂げ続けて初めて自分は満足できると思います。


 聖書は私たちがこの地上の短い生涯を、神のご意志を行なうならば、天であれ地上であれ、永遠の命を与えると保証しています。(ヨハネ第一4:17)



 私たちが神から差し伸べられている仕事は、神が雇い主です。そして、この短い人生の間神のご意志を行なうという仕事です。その仕事には賃金が支払われます。それは永遠の命という賃金です。(マタイ20:8,9)何という割のいい仕事でしょうか。こんなに時給の高い仕事が他にあるでしょうか。


 天での命は、天での不滅の霊者としての命です。死んで霊者として復活した後は、もう死ぬことは決してありません。(コリント第一15:51-53)


 地上での永遠の命を差し伸べられる人は、この地上で人間として復活します。その人の身体は不滅ではありません。復活しても神に不忠実になれば、滅ぼされる可能性があります。しかし、今の人生を神のご意志を行なうために用いるならば、次の世でも、神に忠実であり続ける可能性は非常に高いでしょう。


 私は、永遠に神のご意志を行ない続けたいと思います。そうすることが喜びがあるからです。また、私はみ言葉聖書を愛しています。そして、聖書を私たちに与えて下さった神に感謝し、その方を愛しているからです。また、私は創造者が与えて下さった自分の命やその他のものを感謝しているので、そうしたいと願っています。


 また、神のご意志を行なう人生が報いが大変大きく、これ以上の報いを与える仕事は他にないからです。また、神のご意志を行ない続けたいのは、この生き方が究極的に安全な人生だからです
 


生きている間、どこまで神のご意志を成し遂げられるかは分かりませんが、最善を尽くして神のご意志を行ないたいと思います。そうすれば、私の場合は、天での不滅の命が待っています


 その仕事をどこまで成し遂げられるかは私には分かりません。ある一定の目的を成し遂げられたら、それが望ましいのは言うまでもありませんが、その仕事を成し遂げる程度はどうでもいいのです。この地上で最善を尽くして神のご意志を行ないさえすれば、私たちには、最後には天への復活と不滅の命という冠か、地上の楽園での復活かどちらかが待っています。(コリント第一9:25)


 また、ある人々は、この世の終わりを生き残ってそのまま地上の楽園に入り、永遠の命を享受する人もいるでしょう。(ヨハネ第一2:17)


 この地上に生きている間は、神への忠節という点で、いつでも失敗する可能性があります。でも、私は、最善を尽くして神とキリストに対する忠節を保ち、天での永遠の命をとらえたいと思います。


 私たちは、エホバ神によって天での永遠の命か地上での永遠の命を差し伸べられています。最善を尽くして、その希望を最後まで守り抜きましょう。

聖書の創造の記録は神話それとも事実ですか

 ある教会の牧師は、聖書が創造について述べる創世記の最初の部分は、バビロニアの神々の創造神話のモチーフを材料として使って書かれたと言っています。それで、創世記が述べる創造説話を真実のものだと考えません。しかし、バビロニア創造神話と聖書の創造の記録は全く異なっています。


 バビロニアの主要な神話によると,バビロンの主神マルドゥクは女神ティアマットを殺してから死体を取り,「彼女を二つに裂き,彼女の半分で空を造り」ました。(「古代近東テキスト」,ジェームズ・プリッチャード編,1974年,67,68ページ)女神の体の半分が空になったというのは、作り話であると誰でも分かるでしょう。


 しかし、聖書の最初の言葉は、「初めに、神は天地を創造された」となっています。これは、宇宙に始まりがあったことを示す理性的な記述です。そして、現代科学は、宇宙がビックバンによって始まった、つまり宇宙に始まりがあったと考えています。宇宙に始まりがあったことを認める点で聖書と現代科学は一致しています。

 
 しかし、創造の六日間の創造の順番は現代の地質学で常識とされていることと必ずしも完全には一致しないかもしれません。しかし、科学者の中には、古代地球についてほとんど何も分かっていないことを正直に認める人もいます。例えば、東京大学・大学院で地球環境進化学を研究している関根康人氏は、 「地球の歴史の前半部分、つまり太古代以前(25億年前より昔)の地球について、実はほとんど何も分かっていません。」と述べています。


 科学者が分からないと言っているのですから、創造の六日間に起こったと聖書が述べることを科学は否定することはできません。そして、科学上の学説は新たな発見によってどんどん塗り替えられます。


 しかし、聖書は創造の六日目に地上の動物が現れたことを言っていますが、地質学も哺乳類などの地上の動物の出現が比較的に遅かったことを認めています。


 このように、理性的で実証された科学とも一致する部分もある聖書の記述は、女神の体から天を作ったというバビロンの神話を下敷きにして書かれたものではありません。聖書の記述は、地球を人の住みかとして整えられ、初期の地球のことを知っている方を源としています。神は太古の地球について人間に教えて下さったのです。


 創世記の筆者は誰でしょうか。その牧師は、創世記は複数の筆者によって書かれたと言っていました。それは、同じ創造に関する記述が繰り返し出て来るからです。

 聖書は、最初の五つの本,創世記,出エジプト記レビ記,民数紀略,申命記を律法と呼んで、その律法はモーセによって書かれたと何度も言っています。(ルカ24:44)



聖書とユダヤ人の伝統は創世記をモーセが書いたと証言しています




そして、ユダヤ人と初期クリスチャンもともにそのすべてをモーセによって書かれたものと認めていました。聖書そのものが聖書の最初の五書をモーセが書いたと言っており、その見方はユダヤ人と初期クリスチャンに受け継がれてきました。創世記を多くの筆者が書いたと考えるのは、後代の人が考え出したことです。後代の人々は創世記の筆者が誰であるかについて判断するうえで事実を知っている最初期の人々よりも有利ではありません。


 モーセは、幾つかの歴史的記録を参照してその記録を編集したかもしれません。そのたびに創造の事実に再び言及したかもしれません。また、私たちも何度も同じことを違う観点で繰り返すこともあります。モーセが創造の話に何度も言及することはあり得ることです。 


また、その牧師は、聖書の創世記の記述が神話であって、ダーウィンの進化論に代わる教科書にはなりえないと言っていました。私は進化論は立証されていないし、創世記の創造の記録は実際に起きたことを記録していると思います。それで、進化論を否定し創造説を擁護する科学者たちの言葉を紹介したいと思います。

 まず、ダーウィン自身が「種の起源」の中で、こう述べました。「あらゆる種類の無類の仕掛けをもつ目が自然選択よって造られたであろうと想像するのは、このうえなく不条理のことと思われる、ということを、私は率直に告白する。」(「種の起源岩波文庫)ダーウィン自身当初神を信じていたのです。


 進化論の根幹になる節の一つは、生命の自然発生です。しかし、イギリスの有名な天文学者フレッド・ホイルは、こう述べています。「進化の確率は、ちょうど屑鉄置き場を襲った竜巻によって、ボーイング747型機が偶然に出来る可能性と同じだ。・・・この地上で生命は絶対に偶然によっては誕生できない」。




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進化論の自然発生の確率はボーイング機が竜巻で偶然にできる可能性と同じと言われています 


また、化石の専門家も化石の記録が進化論を立証していないことを認めています。今日知られているすべての化石種の20%を所有しているシカゴのフィールド自然博物館元館長のデビッド・ラウプはこう述べました。「ほとんどの人は、化石は一般に普及している生命の歴史をダーウィン流に解釈するのに有利な論拠の重要な証拠を提供していると考えている。残念ながら、これは正しくない。」


 また、オレゴン州立大学で博士号を取得した物理化学者ドナルド・E・チティックは,化石の記録についてこう述べています。「化石の記録をすなおに見ると,動物は創世記が示しているとおりその種類にしたがって繁殖してきたという結論に至る。ある種類から別の種類へと変化したりはしなかった。今ある証拠は,ダーウィンの時代と同様,創世記にある直接的な創造の記述と一致している。」


  航空宇宙学の技術者ルーサー・D・サザランドは,証拠は生物が器官を徐々に発達させたのではなく、生物が最初から完成した形であったことを述べています。彼は自著「ダーウィンの不可解」にこう書きました。「科学的な証拠が示すところによると,単細胞の原生動物から人間に至るまで,根本的に異なる種類の生物体が最初に地上に現われた時はいつも,そのすべては完成した形で,器官や組織も全部そろって完全に機能していた。この事実から必然的に引き出される結論は,地上に生命が現われる前から,何らかの理知がすでに存在していたということである」。


 遺伝子工学の世界的権威の 「村上和雄氏」 (筑波大名誉教授) も、真っ向から進化論を否定する一人です。 一つの遺伝子に組み込まれている膨大な量の情報を研究しているうちに、「進化論は絶対にありえない」 という結論に到達しました。 


 博士は、「生命の暗号」という本の中で、 このように言っています。「ヒトの遺伝子情報を読んでいて、不思議な気持ちにさせられる事が少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったい誰がどのようにして書いたのか?・・・まさに奇跡としか言いようがなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年位前からサムシング・グレートと呼んできました。 」


 つまり、村上氏 は最初に、精巧な遺伝子情報を作り出した偉大な知性を持つ存在がいるのではないかと言っています。

 進化論は立証された説ではありません。進化が起きる確率はゼロです。そして、科学者は古代地球について分からないことが多いことを認めています。化石の記録は進化を立証してはいません。また、科学者の中には、自然界を創造した偉大な知性が存在するのではないかと考えている人もいます。


 ですから、私は、聖書の創造の記録は決して神話などではないと思います。進化論は間違っていて、神はご自分がどのように宇宙を創造され地球を整えてこられたかを人間に教えて下さったのだと思います。

箴言20章・悪に仕返しせずに神を待ち望んで救われる―ダビデとイエス


 箴言には、「『悪に仕返しするのだ』と言ってはならない。エホバを待ち望め。そうすれば、神があなたを救ってくださる。」と述べられています。 (箴言20:22)聖書の中には、エホバに依り頼んで、神の救いを経験したという実例があります。


 この点で、際立った実例となっている一人は、ダビデです。ダビデは、サウル王から何度も殺されそうになりましたが仕返しせずに生き延びてエホバ神の助けで王となりました。


 サウル王は、預言者サムエルにより油そそがれイスラエルの王となりましたが、エホバに不忠実になっていました。ダビデは、次にサムエルによって油そそがれました。ダビデは、サウル王の武具持ちになり、また、サウル王のために楽器をかなでる者となりました。(サムエル第一16:21)さらに、サウル王の娘婿になりました。


 ダビデはサウルを殺して王権を奪おうとは少しも考えていませんでした。しかし、サウルはダビデの意図を悪くとり、ダビデが自分から王権を奪い取ろうとしていると考えました。(サムエル第一18:8)そして、ダビデを殺そうとして追いかけまわしました。そのために、ダビデはサウルから逃げなければなりませんでした。(サムエル第一19:10)




ダビデはサウル王から何度も殺されそうになりました―でもダビデはサウル王に復しゅうしませんでした



 ダビデは、荒野でサウルから逃げ回る生活を送りました。その間、ダビデは何度もサウルを殺す機会がありました。でも、ダビデは、自分でサウルに対して復しゅうしようとはしませんでした。(サムエル第一24:6,11)


 何度も、サウルの命を容赦しました。ダビデは、エホバの油そそがれた者を殺すことは罪だと考えていました。(サムエル第一26:9)それで、神に罪を犯すよりは、自分の命が危険にさらされる状態をそのままにしておくという道を選びました


ダビデはこう言いました。「エホバが彼に一撃を加えられるであろう。あるいは,彼の日が来て,死ななければならなくなるか,戦いに下って行き,きっと一掃されることであろう。」(サムエル第一26:10)


 それで、自分が手をくださなくても、エホバがサウルを処置され、その時まで神は自分を守ってくださると考えました。ダビデはエホバに依り頼んでいました。ダビデは、エホバに将来のイスラエルの王として油そそがれていたので、エホバが自分をイスラエルの王としてくださる時を待ちました。


 結局、サウル王はフィリスティア人との戦いで命を落としました。そして、ダビデは、イスラエル全体の王として認められることになりました。ダビデが復しゅうをせずに、神を待ち望んだのは、無駄になりませんでした。




サウル王は霊媒に相談して完全にエホバの是認を失い戦いで命を落としました―ダビデが王となりました





 しかし、過去において復しゅうをしようとしなかった神の僕が、ダビデのように全部敵の迫害を生き延びたわけではありません。例えば、イエスは敵によって杭につけられ、命を落としました。イエスは、奇跡を行なえました。それで、み使いの十二軍団を遣わしてもらうようにエホバに祈願をして、敵を壊滅せることさえできたのですがそうしませんでした。(マタイ26:53)



 しかし、イエスは地上に人間として生きている間は、自分を捕えて殺そうとした敵に復しゅうしようとはしませんでした。しかし、イエスは死に至るまで神に忠実を保ったので、三日目に神によって不滅の霊者として復活させられる結果になりました。(使徒10:40)イエスの場合も仕返しをせずに神を待ち望んだことによって報われました。


 そして、イエスはエホバ神によって天の王権を与えられ、将来地上の邪悪な者たちを一掃することになります。(ダニエル7:13,14。啓示19:14,15)その時には、完全に神のご意志に調和して合法的に神の裁きを行なうことになります。


 それで、エホバ神を待ち望んで敵に復しゅうしないというクリスチャンの立場は、生きていても殺されてしまっても、報いがあります。一部のクリスチャンは、最後には天の霊者として復活させられ、神の王国の成員になります。


 また、別のグループは神の王国の支配の下のこの地上で、人間として復活させられることになります。(使徒24:15)それで、箴言20章22節の仕返しせずに神を待ち望んで救われるという言葉は真実になります。


 復しゅうをして流血の罪を犯すことなく、神を待ち望んで神の律法と原則を守って神の是認を保っていきましょう。それが神からの救いを経験する方法なのです。