一度限りの短い人生と神からの永遠の命―どちらがいいですか

 ある人は、死ぬ時人生を後悔しないように聖書を無視していろんなことに挑戦するよう勧めます。しかし、神が与えてくださる永遠の命と、一度限りの短い人生とどちらがいいでしょうか。


 神を無視していろんな生き方をするよう勧める人たちが差し伸べることができるのは、せいぜい良くて七十年か八十年の人生です。(詩編90:10)また、最近は八十代の半ばまで生きられる人も多くなりました。


 しかし、あなたはもし、八十年生きられるとしたら、長生きして良かったと考えますか。その寿命で、自分が成し遂げたかったことをすべて成し遂げられたと考えますか。たとえ、八十年生きても、私たちは十分だったと感じないのではないでしょうか。短かくはかない人生だったと感じるのではないでしょうか。


 私は、八十年生きたとしても、たとえ、百年以上生きたとしても決して満足できないと思います。そして、八十年という人生はあっという間です。若い時は、時の流れを幾らか長く感じます。しかし、年をとると時間の流れは速く感じられるようになります。それで、十年という期間はあっという間に過ぎます。聖書も私たちの七十年あるいは八十年の人生が、「速やかに過ぎ去る」、わたしたちは「飛び去る」と述べています。(詩編90:10)


 十年があっという間に過ぎてしまうのですから、三十年や四十年もあっという間に過ぎてしまうと思います。ですから、わたしたちの多くにとって自分の死までの残りの人生も大変短く感じられることでしょう。


 しかし、当時130歳まで生きてきた神の僕のヤコブでさえ、自分の人生を振り返って、「私の年の日数は、わずかであり、苦しみの多いものでございました。」と言いました。(創世記47:9)130歳まで、生きていたヤコブが、自分の人生は「わずか」だと感じたのであれば、私たちが死ぬ時、自分の人生について長いと感じるでしょうか。決して長いと感じないでしょう。





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私たちはどんなに長生きしても自分の人生は短かったと感じることでしょう


 若い時も短いです。聖書も若い時は短いと言っています。「若さも人生の盛りもむなしい」と述べています。(伝道の書11:10)若い時の美貌も体力も短期間で衰えてしまいます。「美しさもむなしいものとなることがある」と聖書は述べています。(箴言31:30)


 それで七十年あるいは八十年という人生は決して長くありません。あっという間に時は過ぎてしまい、最後には、年をとり衰えて死にます。



 人の人生について詠った詩歌があります。林芙美子という小説家による「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」というものです。神のご意志を無視した人生はとりわけそうなります。この林芙美子という方も47歳の若さで亡くなっています。



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 聖書も私たちの人生を花や草に例えています。花や草は、朝盛んに萌え出ていても切り取られると夕方にはしなびてしまいます。詩編90編6節には、「人の子」を「移り変わる青草」に例えて、「朝に花を咲かせ,そして必ず移り変わります。夕べには枯れて,必ず干からびます。」と述べています。そして、私たちは遅かれ早かれ人生の終わりに直面します。


 聖書は、私たち人間の人生をはかない呼気にも例えています。(詩編62:9)人間の口から出された呼気は大変短い時間だけ存在します。そして、それは、大気の空気と同化し、存在していたのかどうかも分かりません。大変、はかないものです。神を無視した人生はとりわけ何と価値の軽いものでしょう。


 聖書を無視して自分の望む生き方をするように勧める人は、そのような短い人生しか差し伸べることができません。そして、自分の好きなように不道徳にふけるように勧める人が差し伸べることができる人生は、さらにもっと短いです。


エイズで、二十代や三十代で死ぬ人も多くいます。そして、最後には性病で苦しみうめきながら、死んでいくのです。(箴言5:8,11)数分の快楽のために、何と高い代償でしょう。自分の貴重な人生を短くしてしまうのです。



 また、戦場で他の人を殺す人の多くも、やはりそれくらいの長さの寿命しか生きられません。そして、それで人生終わりです。その後は何の保証もありません。そして、聖書を無視した人生を送るように勧める人の人生は、多くの場合、苦しみや悩みに満ちています。


 人が自分の命を短く感じるのは、人間が永遠の概念を持っているからです。それで、人間はいくら生きても、まだ生きていたいと感じるのです。人間の持つ永遠の概念は神から与えられました。(伝道の書3:11)人間はもともといつまでも生き続けるように創造されているからです。



 私は個人的にこの短い人生で終わりたくありません。私は長く続く命が欲しいです。アフリカの多くの人々は、私くらいの年で、そして、もっと早くに死んでいます。アフリカでは、性の不道徳によるエイズのためもあり、平均寿命が従来四十代か五十代でした。しかし、先進国でも五十代くらいで癌で亡くなる人も多くなっています。



 そして、自分の人生を振り返ると、決して長かったとは思いません。私はたった一度限りで終わる人生なんていやです。


 聖書は永遠の命の希望を差し伸べてくれています。(ヨハネ6:47)神に頼って初めて永遠の命の希望が持てます。神が私たちに永遠の命を差し伸べて下さるのは、神が私たちを愛してくださって、私たちの人生を高く評価してくださるからです。



 私は、神に愛され永遠に生き続けて意義あることを成し遂げ続けて初めて自分は満足できると思います。


 聖書は私たちがこの地上の短い生涯を、神のご意志を行なうならば、天であれ地上であれ、永遠の命を与えると保証しています。(ヨハネ第一4:17)



 私たちが神から差し伸べられている仕事は、神が雇い主です。そして、この短い人生の間神のご意志を行なうという仕事です。その仕事には賃金が支払われます。それは永遠の命という賃金です。(マタイ20:8,9)何という割のいい仕事でしょうか。こんなに時給の高い仕事が他にあるでしょうか。


 天での命は、天での不滅の霊者としての命です。死んで霊者として復活した後は、もう死ぬことは決してありません。(コリント第一15:51-53)


 地上での永遠の命を差し伸べられる人は、この地上で人間として復活します。その人の身体は不滅ではありません。復活しても神に不忠実になれば、滅ぼされる可能性があります。しかし、今の人生を神のご意志を行なうために用いるならば、次の世でも、神に忠実であり続ける可能性は非常に高いでしょう。


 私は、永遠に神のご意志を行ない続けたいと思います。そうすることが喜びがあるからです。また、私はみ言葉聖書を愛しています。そして、聖書を私たちに与えて下さった神に感謝し、その方を愛しているからです。また、私は創造者が与えて下さった自分の命やその他のものを感謝しているので、そうしたいと願っています。


 また、神のご意志を行なう人生が報いが大変大きく、これ以上の報いを与える仕事は他にないからです。また、神のご意志を行ない続けたいのは、この生き方が究極的に安全な人生だからです
 


生きている間、どこまで神のご意志を成し遂げられるかは分かりませんが、最善を尽くして神のご意志を行ないたいと思います。そうすれば、私の場合は、天での不滅の命が待っています


 その仕事をどこまで成し遂げられるかは私には分かりません。ある一定の目的を成し遂げられたら、それが望ましいのは言うまでもありませんが、その仕事を成し遂げる程度はどうでもいいのです。この地上で最善を尽くして神のご意志を行ないさえすれば、私たちには、最後には天への復活と不滅の命という冠か、地上の楽園での復活かどちらかが待っています。(コリント第一9:25)


 また、ある人々は、この世の終わりを生き残ってそのまま地上の楽園に入り、永遠の命を享受する人もいるでしょう。(ヨハネ第一2:17)


 この地上に生きている間は、神への忠節という点で、いつでも失敗する可能性があります。でも、私は、最善を尽くして神とキリストに対する忠節を保ち、天での永遠の命をとらえたいと思います。


 私たちは、エホバ神によって天での永遠の命か地上での永遠の命を差し伸べられています。最善を尽くして、その希望を最後まで守り抜きましょう。