啓示19章・全能者なる神の憤りの怒りのぶどう搾り場を踏む

「そして,彼の口からは鋭くて長い剣が突き出ている。それによって諸国民を討つためである。また彼は,鉄の杖で彼らを牧する。また,全能者なる神の憤りの怒りのぶどう搾り場も踏む。」(啓示19:15)

啓示19章には、白い馬に乗られるイエスと彼に従う天の軍勢が、登場します。そして、冒頭の聖句にあるように、イエスは口から出た鋭くて長い剣によって諸国民を討ち、鉄の杖で牧し、全能者なる神の憤りの怒りのぶどう搾り場を踏みます。これは、何を意味しているでしょうか。


啓示1章16節では七つの会衆に音信を伝えたイエスの「口からは鋭くて長いもろ刃の剣が突き出て(いる)」と述べられていましたから、白い馬に乗った方がイエスであることを裏づけています。


聖書を調べてみると、イエスが剣で諸国民を討つとは、霊的な意味と文字通りの意味があるようです。イエスはペルガモン会衆のバラムの教えやニコラオ派の教えを堅く守る者たちとご自分の口の長い剣で戦うと言われました。(啓示2:14〜16)ですから、イエスは諸国民と「霊の剣,すなわち神の言葉」を用いて、比ゆ的に、また霊的に戦われるのでしょう。(エフェソス6:17。ヘブライ4:12。コリント第二10:4,5。詩編7:11,12)


エスは鉄の杖で諸国民を牧することをします。イエスが鉄の杖で諸国民を牧するとは、強い権威をもって人々を霊的な牧草地に連れて行って霊的な草をはむように導くことも意味しています。(エレミヤ23:4。ミカ7:14)




エスはまず強い権威を持って神の言葉をもって霊的に牧する

しかし、鉄の杖で諸国民を牧するということは、イエスに従う天の軍勢も行ないます。このことはイエスがテアテラ会衆の天的希望を持つクリスチャンに約束されたことから分かります。イエスは「征服する者」つまり死に至るまで忠誠を保つ者に「諸国民に対する権威を与え,その者は鉄の杖で民を牧(す)」と約束されました。(啓示2:26,27)このことは、鉄の杖で諸国民を牧するということは、霊者となった14万4千人が、諸国民を裁く業をも意味していることを示唆しています。


エスが全能者なる神の憤りの怒りのぶどう搾り場も踏むとは、何を意味するでしょうか。地上の人々の悪がみなぎったことは、地のぶどうが熟したと言えました。そのために地のぶどうの木の取り入れが行なわれます。(ヨエル3:13)聖書は地のぶどうの木が神の怒りの大きなぶどう搾り場に投げ込まれ、多大の流血があることを示唆しています。(啓示14:19)


地のぶどうの木とは何を表しているのでしょうか。エジプトから導き出し、カナン人という諸国民を追い出して約束の地に植えられたイスラエル国家はぶどうの木になぞえられています。(詩篇80:8。エレミヤ2:21)古代においてはエホバから裁かれたエルサレム、すなわちユダの国民がぶどうの木に例えられました。(エゼキエル15:6,7)それで、現代において背教したイスラエルエルサレムの住民に対応しているもの、すなわち大いなるバビロンがぶどうの木に含まれているでしょう。


また、エホバが「ユダの処女なる娘のぶどう搾り場を踏まれた」という表現は、過去においては、不忠実なイスラエルが神に用いられた古代バビロンによって軍事的な攻撃を受けることをエホバが許されたことを意味しました。(エレミヤ哀歌1:15)


さらに別の例としてエホバが周囲のすべての国民をぶどう搾り場で踏む事が預言されています。そしてそれは、諸国民の戦争と結びつけられています。(ヨエル3:9,13)ですから、イエスがぶどう搾り場を踏むという表現は人間の大規模な戦争が起こることを許すことによって多大の流血があることも意味しているでしょう。



エスが神の怒りのぶどう搾り場を踏むとは人間の大規模な戦争も意味する

ですから、イエスが「神の怒りの大きなぶどう搾り場」を踏むという表現は北の王が南の王にしかける世界的な戦争すなわち大患難をも意味するでしょう。


さらに、イエスが「神の怒りの大きなぶどう搾り場」を踏むという表現は、この事物の体制の最終部分で、イエスが直接、神に従わない邪悪な諸国民を裁かれ、諸国民を最終的に永遠の滅びに処することをも意味しているでしょう。聖書は確かに、イエス・キリストが天の軍勢とともに悔い改めない諸国民を裁かれることを述べています。(テサロニケ第二1:6〜9)その業に、死に至るまで忠誠を保って霊者となった14万4千人があずかることを聖書は示唆しています。(啓示2:26,27)


啓示19章15節の意味するところは、イエスはまず諸国民に対してみ言葉を用いて戦われることを示しています。また、聖書は、さらに非常に大規模な流血を人類が経験することになることを示唆しています。それは、イエスが「神の怒りの大きなぶどう搾り場を踏む」という表現で表わされています。それは、近づく大患難、諸国民の間の国際戦争をも意味しています。その時、イエスはご自分の助言に従う人々がその大患難を生き残るように取り計らわれ、一方イエスの助言に従わない諸国民、悔い改めない人々は、戦争で命を失うままにされます。(マタイ24:15,16,21,22)また、それは、この事物の体制の終わりの邪悪な人々に対する裁きも意味しています。


私たちは神の怒りを経験することのないように、神の言葉からのイエスの助言や懲らしめに聴き従いたいと思います。また、いつも目ざめていて、大患難を逃れ、また事物の体制の終わりも生き残ることができるようにしておきたいと思います。(ルカ21:35,36)


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