エホバの証人の排斥理由秘密主義について



(jehovah'switnesses12)
エホバの証人が排斥理由を秘密にするのは聖書にかなっていますか



 エホバの証人は、ネットの世界でとても悪く言われています。しかし、私は長い間エホバの証人と交わりましたが、エホバの証人の中には、聖書に良心的に従おうと懸命に努力を払っている人々が含まれていることを知っています。


 また、私は、エホバの証人から小さな点でも聖書の律法や基準に忠実に従うという態度を学びました。また、聖書に従うと命が危険にさらされてしまう場合も、聖書に従うよう多くの証人たちが努力を払ったということを知っています。それは、エホバの証人のほめられるべき点だと思います。その態度は、例え、聖書の預言の解釈に幾らかの間違いが入っていたとしても、エホバ神に是認される条件にかなっていると思います。


 それで、私は、エホバの証人が聖書に従っているかどうかに関心があります。私は、エホバの証人が聖書に従っている場合は、それを認めたいと思います。しかし、エホバの証人が聖書からそれている場合、それを指摘したいと思います。


 私は、バーバラ・アンダーソンの書いた手記を読みました。彼女は長年、エホバの証人だった人で、10年間、本部のベテルの著作部門で働いた人です。彼女は目ざめよ誌を作成したり、「ふれ告げる」の本に関連して調査を行ったりしました。彼女の手記は、エホバの証人の実情について多くのことを教えてくれます。
 

 彼女はエホバの証人児童虐待問題の取り扱い方についてエホバの証人の統治体と、意見を異にしました。彼女は、エホバの証人の問題を外部に知らせました。その結果、排斥されることになりました。


 私は、バーバラの調査能力に感銘を受けました。私は彼女は、事実を直視する人で、正義感もあると思います。私は、目ざめよ誌から大いに益を受けてきましたが、それは彼女が本部で働いた時期に書かれた目ざめよ誌も含まれていると思います。それでも、私は彼女の意見にすべて賛成しているわけではありません。
 

 彼女の訴えについては考慮すべきことが幾つかありますが、今回、彼女が非難しているひとつの点、エホバの証人児童虐待者を守っていると彼女が主張していることについて考えてみたいと思います。


 彼女は手記の中で、次のように語っています。 「私が、最近、エホバの証人である関係者と話したところ、エホバの証人の会衆では、集会に参加している“兄弟”の中に、小児性愛性的虐待で告発されたか、告白したか、あるいは有罪と宣告された者たちについて、いまだに何も知らされていないとのことである。」 

  
 エホバの証人は、小児性愛の場合でも、淫行が犯されて悔い改めない時、基本的に排斥すると思います。私は、排斥の発表をする場合、その問題が公になっている場合は、その理由を発表するようにという指針を過去においてものみの塔の中で読んだ覚えがあります。しかし、エホバの証人は、最近はずっと、会衆で排斥の発表がある場合、その理由の詳細を言わないことが少なくありません。


 今では、多くの場合、その理由を簡単に一言だけ言うことが多いのではないかと思います。あるいは、理由は一切言われない場合もあります。ですから、会衆の人は、ほとんど排斥理由を知りません。排斥がある場合、排斥理由を知っているのは、排斥された当人と、審理にかかわった長老たち、また、関係者だけだということが少なくありません。


 今回、エホバの証人が排斥理由を秘密にするのは、聖書的かどうかを考えてみたいと思います。


 一世紀の事例を考慮するならば、会衆の人々は、その排斥理由の概要について知らされたようです。一世紀において、排斥された事例で有名なのは、コリント会衆の事件です。コリント会衆の成員の一人が淫行を犯しました。


 パウロは、「あなた方の間では淫行のことが伝えられています。しかも、諸国民の間でさえないほどの淫行で、ある人が自分の父の妻を有しているとのことです。」と書きました。(コリント第一5:1)


 コリント会衆のその男性の淫行は、複数回に及んだものであったようです。なぜなら、男性が女性を「有している」という書き方がされているからです。そのような淫行は、信仰のない諸国民の間でも、稀なはなはだしいものでした。しかし、コリント会衆では何の処置も取られていませんでした。


 それで、パウロはそのことについて、コリント会衆への手紙の中で、その「邪悪な人をあなた方の中から除き去りなさい」と指示を与えました。(コリント第一5:13)


 当然、パウロの手紙は、まずコリント会衆の長老たちに読まれ、次いで会衆の人々の前で読まれたことでしょう。パウロの手紙は諸会衆で公に読まれたと考えられるからです。パウロのコロサイ人への手紙は、コロサイ会衆でも読まれて、ラオデキア会衆でも読まれるように取り計らわれました。(コロサイ4:16)


ですから、コリント会衆の人々は、パウロの手紙が読まれるのを聞いて、自分たちの会衆の誰かが淫行を犯していること、それは断固として退けるべきであることが分かったでしょう。


 当然、パウロの手紙が読まれる前か後にその男の人を会衆から排斥するという発表があったでしょう。ですから、一世紀において、排斥がある場合、その排斥理由は秘密にされるのではなく、排斥理由の概要は、会衆の人に知らされました。


 排斥理由が会衆の人に発表されるならば、会衆の人々はそれがクリスチャンの基準からは受け入れられないものであることを知り、恐れの気持ちを抱いて同じ罪を犯さないように促されることでしょう。当然、淫行が理由であれば、その排斥者と淫行に陥らないように警戒させることになることでしょう。


 さらに聖書は、「罪を習わしにする者たちを,見守るすべての人の前で戒めなさい。ほかの人たちも恐れの気持ちを持つようになるためです。」と勧めています。(テモテ第一5:20)


 この言葉は、排斥に至らない罪で戒めることについて語っているのかもしれません。それならば、もし排斥にあたる罪の場合には、さらにこの言葉は当てはまります。他の人も同じ罪を犯さないように恐れの気持ちを持つために、会衆の成員の前で公に排斥理由をはっきり発表することが必要です。排斥理由の概要を知らなければ、会衆の人々は、恐れの気持ちを持つことはできないでしょう。


 こうした一世紀の事例と聖書の言葉を考えるならば、エホバの証人の間で、排斥を行う場合、その排斥理由の概要をはっきり会衆に発表するのが聖書的だと思います。そのようにすれば、例えば、それが児童虐待ならば、同じ会衆の子供を持つ親は、その排斥者から自分の子供を守ることができます。また、若い信者もその人に警戒するように助けられるでしょう。


 また、会衆の人がある人の排斥理由を知っているならば、その人が振る舞いを改めたかどうかを判断する助けにもなり、また、その排斥者が復帰した場合にも、会衆の人々は、理由を知っているので、排斥理由に関連して、その人の振る舞いに関してある程度、注目するでしょう。


 私は、この点では、バーバラ・アンダーソンさんの言うことは、聖書にかなっていて正しいのではないかと思います。私は、クリスチャンの組織の手続きが聖書的でない場合、問題が生じる場合が多いと思います。


 私は、エホバの証人が、このことで、より一層聖書的にするならば、児童虐待の問題で、外部の人々からの非難からエホバの証人を守ることができると思います。この点で、エホバの証人が自分たちの行いを聖書に調和させるならば、エホバ神の是認と祝福を得る点で助けになると思います。